Report from asahi 第29回「政治家のファッション」
Report from asahi
no29(平成17年3月)
1月21日、今年も通常国会が始まった。郵政民営化やイラク、北朝鮮など課題は目白押しだが、盛り上がりは今ひとつ。小泉首相の自民党総裁としての任期が06年9月に切れるため、「勝負は来年」と考える政治家が多いからかもしれない。
そんなことを考えながら、「今年も国会が始まったなあ」と実感したのは、和服姿の議員が目についたからか。和装振興議員連盟は毎年この時期、和服で登院を呼びかけている。
政治家にとって、服装は自分のイメージを決める大事な宣伝手段だ。米国大統領選では、よく赤いネクタイが「パワー・タイ」として登場する。川口順子前外相の「勝負服」も赤色だった。逆に、その一世代前の田中真紀子元外相は、セーターやフリースといった普通の「庶民服」を好んで使った。永田町で、「彼女はテレビに自分が映る間隔を見計らいながら、同じ服をわざと着ている」という噂を聞いたことがある。テレビを見ている人は「田中さんは数日前と同じ服を着ている。そんなに服をもってないんだ」「服装に無頓着なんだ」と思うだろう、というのだが、真偽はわからない。また、選挙のたびに安い靴とスーツを大量に車に積み込み、田んぼで働く人を見つけると、スーツ・革靴姿のままでジャブジャブと分け入っていき、相手の感動を誘うという政治家もいたという。
私個人の取材体験でいうと、一番印象に残っているのは村山富一元首相だ。「そうかのお」「そうじゃなあ」と大分弁で朴訥としゃべる彼が、私が政治部に入って初めて担当した政治家だった。その素朴な人柄は服装にもよく出ていた。
当時の首相番記者は、1人に限って、官邸と国会の廊下で歩きながら首相の話を聞くことができた。私も度々名乗りを挙げて、村山さんにくっついていた。とはいえ、経験は浅いし、廊下は短いしで、気ばかり焦る。勢い、ぐいぐい体を寄せて話を聞くのだが、6月のある日、プーンと鼻についた匂いがあった。ナフタリンの匂いだった。若い私は、それまで政治家には少なからず偏見があった。「金持ちだから、服なんか季節ごとに使い捨ててるんだろう」とも思っていた。その日から、少し村山さんが好きになった。
その2か月後。8月9日のお昼前、私は村山さんにくっついて長崎に出張した。原爆慰霊式の日だった。長崎の原爆投下時刻は午前11時2分。その時刻に合わせて式典は開かれる。当日は快晴だった。私は記者席に座りながら、不謹慎にも、流れる汗でシャツがグシャグシャになっていく不快感に閉口していた。ふと、前方に座る村山首相の背中が見えた。白いワイシャツが透けて見えるほど、スーツの生地が薄かったからか、村山さんの首筋には汗一つ浮かんでいなかった。もちろん、村山さんは上着を一度も脱ぐことなく、ひょうひょうと挨拶を終えた。妙に村山さんのイメージによく合う場面で、10年経った今でも、そのときの光景が昨日のように思い出される。
ああいう、思惑や戦略、下心と関係なく、服装が自然に見えた政治家は、それ以来お目にかかっていない。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report" FromASAHI No:28
"Report"FromAsahi No.28
「政治資金パーティ」
パーティー。何となく、楽しくなる言葉だ。政治部に入って10数年。数多くの国会議員の政治資金パーティーを見てきた。会場は例外なく高級ホテルの大広間。ほかの政治家の夜の日程を邪魔せぬよう、開始時間は6時台がほとんど。8時には終わる。
入り口にただずむコンパニオンが、にっこり微笑んで飲み物を勧めてくれる。(「新聞記者だから」と気取って、一度も飲んだことはないが)
所属する派閥の長やら有名な財界人やらが、考えつく限りの褒め言葉を、壇上に立ちっぱなしの主催者本人と奥様に浴びせ続ける。中身はまずない。
一方、会場では政治家に挨拶して回る官僚の姿や、飲食に夢中になっているサラリーマンをよく見かける。会場に10数分留まっただけで、すぐ帰る人もざらにいる。
一体、このパーティーに何の意味があるのか。それは名前の通り、資金集めだ。しかも、近年ではその存在が、ますます重要になっているという。
12月、03年の政治資金収支報告書が47都道府県で公開された。政治家の懐具合の取材をして回ったときの話だ。
不景気が続く昨今、企業は政治献金にシビアになっている。株主総会で問題視される場合もある。一方で、パーティー券の購入なら、その場限りのお付き合いにできるし、交際費名目での処理もできる。「献金はダメだが、パーティー券なら」という企業が最近は増えているのだという。
パーティー券の価格は、1枚2万円が相場だ。これを政治家の秘書が企業を回って販売する。やり方は千差万別。ベテラン議員ともなると「固定客」が付く。5枚単位で買ってくれる「お得意さん」も多い。一方、若手議員や野党は大変だ。ある事務所は、「固定」「有望」「飛び込み」に分け、訪問や電話、郵送を組み合わせて対等しているという。そこの秘書氏は「新規開拓も大事。でも、全部訪問していては体が持たない」と話す。1度のパーティーで3千枚を売りぬくという。昔、「会社四季報」に載っている企業すべてにパーティー券を郵送した事務所もあったそうだ。
であれば。政治資金パーティーは、パーティー券を販売した段階で、すでにその使命を終えているのだ。秘書氏も「会場に来るか来ないかは、大した問題ではない」と話す。
永田町にいる大抵の政治家は「個人献金が中心になれば、どんなに良いことか」と話す。癒着がなくって、政治に感心を持ってくれれば、そりゃあ働き甲斐もあるだろう。
でも政治家にだって、「1枚2万円だけど、買ってみようかな」と考えたくなるようなパーティー(もちろん、勉強会でも良いけれど)にする義務があろうというものだ。今現在、講師や内容を工夫している政治家は少ない。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report" FromASAHI N0:27
"Report" from
ASAHI No:27 「携帯電話」(2005年1月号)
「ヌグ(誰)?」。受話器の向こうから、疑うような声音が漏れてきた。「すいません。日本の朝日新聞ですが、ぜひお会いしたいと思って電話しました―」
10月下旬、私は大汗をかきながら、朝からずっと会社の電話にしがみついていた。
最近、火を噴き始めた米軍の再配置問題。もともと軍の財政圧縮が目的だったが、同時多発テロや、イラク戦争なども重なり、どんどん内容が変わっている。40万人とも言われる海外派遣軍がどう姿を変えるのか。当の米国人たちもまだよくわからないのが現状だ。
そこで、11月初めに、日本より先に米国との協議が始まった韓国に取材に行くことにした。が。そこからが問題だった。数ある取材のなかでも軍事分野は壁が高い。とりわけ現在進行中の話を、外国の新聞社が取材できるものかどうか。
6月に取材に出かけた時は散々だった。日本の韓国大使館を通じて申請を出したら、紹介してくれたのはたった1人だけ。現地支局は多忙を極めており、応援は望めそうも無い。
切羽詰って、ゲリラ戦を挑むことにした。韓国社会の特徴の一つに「電話文化」がある。政府高官の名刺にまで、携帯電話番号が刷り込んである。以前、韓国大使館員が「日本はプライバシーが守られていて良いですねえ。韓国では携帯電話の番号を教えないと、記者が怒り出すんですよ」と苦笑していた。
これ幸いと、まず知り合いから、国防部や外交通商部の官僚、軍人、安保研究家などの名刺を収集した。さすがに「いきなり電話するのは、やっぱり失礼では」と思い、自分の取材の趣旨を、英語とハングルに要約して、メールで送った。
暫く待ったが、30人ぐらいに送って返事が来たのは1割ちょっと。しょげていると、知人の韓国専門家が笑った。「大丈夫。電話すればみんな会ってくれる」
本当にうまく行った。今度の成功率は8割以上。国防部の高官は「じゃあ、昼ごはんでも一緒に食べるか」と誘ってくれた。空軍の将軍は忙しい日程をやりくりして、「朝7時に食事しながら話そう」と言ってくれた。多い日で一日8人。取材メモはどんどんたまった。
取材の合間、日本大使館の職員と焼肉を食べながら、意見交換をした。だいぶ酔いが回った頃、大使館員氏が煙の向こうから「牧野さん、国防部に取材に行かれたでしょ」といたずらっぽく囁いた。「えっ、何で知ってるんですか」とどぎまぎしていると、彼は「実は、補佐官が慌てて大使館に電話してきたんです。"牧野って誰だ"って。まあ非公式に会うなら、大騒ぎしない方がいいなって思って、知らない振りをしておきました」と教えてくれた。
ニュースソース(情報源)はできれば実名で載せたい。でも、今度の記事には、「韓国政府高官」とか「韓国軍関係者」とか、ちょっとぼかした表現が多くなりそうだ。でも、それでより深みのある記事を提供できるのなら、読者の方にも許してもらえるかな、と思う。
昼食をご馳走してくれた国防部の高官からは先日、直筆の英語で丁寧なグリーティングカードが届いた。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report"From ASAHI NO:25
"report"from
asahi no:25「秘密任務」
夏の暑さが残ったある日、九州北部の郊外にある一軒家を尋ねた。自衛隊で電波傍受を担当した元自衛官の自宅だった。
自衛隊の電波傍受活動は長く、秘中の秘とされて来た。関係者は名刺を持つことも許されず、仕事内容を他言することは許されない。
東京・市ヶ谷の防衛庁には、電波傍受を担当する情報本部電波部が入ったビルがある。一階の回転ドアは、専用のIDカードを持っていないと動かない。情報分析用のコンピューターは、担当者が暗証番号を挿入して初めて起動する。担当者でさえ、コンピューターの中の情報を取り出すと、その記録が自動的に管理者に届く仕組みになっているという。
取材を試みたものの、これまでになく難しい仕事になった。乏しい情報から、あちこち関係者を訪ね、ようやく行き着いたのがこの元自衛官氏だった。
電話で「九州までお邪魔したい」と頼み込むと、「私は読売新聞しか読まないんだが」と言いながら、時間を取ってくれた。
朝5時に東京の自宅を出て、お昼ごろ着いた。自宅の場所がわからず、うろうろしていると、外まで出てきて迎え入れてくれた。和室の机を挟んで、ぽつぽつと語り始めた。
彼の仕事は、主に情報の分析だった。日本全国にある自衛隊の通信所が傍受した軍事通信の内容を整理する。ロシアの戦闘機パイロットと地上基地の更新、軍事演習の際に飛び交う部隊間のやり取り、発射したミサイルの弾道や着弾点を調べる観測船と基地の通信など。
自衛隊には「露華鮮」という言葉がある。日本の安全保障に大きな影響を与えるロシア、中国、北朝鮮の使用言語のことだ。自衛隊は専門の学校でこの「露華鮮」の語学教育を徹底的にやる。鍛えられた語学のエキスパートが傍受したこれらのやりとりが、東京の自衛隊の分析部署に送られてくる。そこで分析した資料が「電波情報」として、内閣や警察などに配布されるのだ。
こうした話を、自分の体験談を含め、慎重に言葉を選びながら、彼は語った。横で聞いていた奥さんがため息をついた。「そうだったの。あの頃、夜中まで帰って来なかったり、泊り込んだり、とても忙しそうだった。そういう仕事をしてたの」
家族にも明かせなかった仕事を、初めて会う私に語ってくれたことに軽い感動を覚えた。
取材時間は大幅に延び、気がつけば夕方になっていた。慌てて「東京に戻ります」と告げると、近くの駅まで車で送ってくれた。
「私たち自衛官は、長く日陰者扱いをされて来た。軍事機密は明かせない。でも、自分たちの仕事を知ってほしいという気持ちも強いんです」。駅で私の手を握りながら、彼はそんなことを言った。
9月21日の朝刊、「自衛隊50年 情報力」という企画で、彼の話を匿名で紹介した。感謝の気持ちを込めて、紙面は郵便で彼の自宅に届けた。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report" FromASAHI 第24回
"Report"From ASAHI No:24「大使というお仕事」
8月のお盆期間。いつもはビジネスマンしか見当たらない汐留のレストランも、この日ばかりは、家族連れの姿が圧倒的に目についた。
夜、知り合いの外交官氏の送別会を開いた。アジア地域の某国に大使として赴任するのだ。決して大国とは言えないが、安全保障問題で大きな注目を浴びている国。「仕事をしたい」と訴えて、赴任が決まったと聞いた。
約束の時間よりやや遅れて、氏はやってきた。席につくなり、ワイシャツのネクタイを緩めながら、「ふーっ」とため息をひとつ。のっけから「いやいや、とっても疲れた」とこぼす。何事かと聞いたら、日中、皇居に行ってきたという。
大使は天皇の信任状なしには接受国に赴任できない。天皇が現れるずいぶん前から、リハーサルを入念にやったという。「ずーっと下を向いて、信任状もらって。顔なんか見えなかった。あれは学生時代の卒業式を思い出させるね」と苦笑いする。
「現地での食事はどうするんですか」と尋ねた。会食が重要な公務となる大使であればこそ、料理人はどうしても必要になる。氏が赴く国には立派なレストランが少なく、自然と大使公邸での食事が大きな役割を担うことになる。
「ちょうど良い腕の日本人が見つかって。何とか僕の財布でも満足してもらえそうなんだ」と嬉しそうだ。料理人の給料は、ほぼその世代と同じ額だという。30代なら30万円、40代なら40万円が相場というわけだ。基本は大使のポケットマネー。3割くらいは補助が出るが、上限額もある。最近の外務省批判の高まりで大使の給料はかなりカットされたという。
食事の中身も大変だ。以前、別の大使から「会食で一番気を遣うのは宗教」という話を聞いたことがある。たとえば、イスラム教の国ではアルコールは現金。ワインの色をしたジュースで代用するという。肉類でいえば、イスラム教なら豚、ヒンズー教なら牛はご法度だ。トンカツやすき焼きなんか出したら国際問題になる。「お客さんがいないときぐらいいいだろう」と気を緩めると、たちどころにお手伝いさんたちが世話話にして周囲に振りまくという。「食事もねえ、案外窮屈なんだよ」とつらそうだ。
肝心の仕事はどうか?たくさんの人と会い、たくさんの情報をいち早く仕入れる。これが目的だという。「僕はねえ、偉そうに踏ん反り返るつもりはないんだ。仕事しなくちゃね」。
その意気や良し。「朝日新聞の記者も現地にいますからね。どうか会ってやってください」と話をあわせた。すると、氏はいたずらっぽく笑った。「そうだね、5番目かな」。
「へー、一番から四番は誰なんです」と突っ込んだ。答えは「1番目は米国政府関係者、2番目は米国のマスコミ、3番目は現地政府関係者、4番目は現地マスコミだね」。
どこの国に行こうと、米国の超大国ぶりは変わらないということか。愉快で楽しい会話の夜も、最後はちょっぴり変な気分で終わった。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report" FromASAHI 第24回
"Report"FromASAHI No.23
「ブンデスヴェア(ドイツ連邦軍)」
7月なのに、肌をなでる風がとても涼しい。ドイツ連邦軍改革の取材でベルリンにやってきた。
ドイツと日本の共通項。誰でも思い浮かぶのは、第二次世界大戦の敗戦国という史実だ。東西統一から10年以上を経過した今でも、あちこちにその歴史を垣間見ることができる。
ヒトラーが焼き討ちにした旧帝国議会は、99年の首都移転に伴い、焼け落ちた建物中央部をガラス張りのドーム構造にした連邦議会議事堂として蘇っていた。議事堂前には、赤地に白く染め抜いた十字の旗が翻る建物がひとつ。「はて、なぜスイス大使館だけがここに?」と通訳に聞くと、「永世中立なので、この建物だけが爆撃を免れたんです」という。
ブランデンブルグ門につながるウンターデンリンデン通り。威容を誇るロシア大使館の前庭が覗けた。綺麗に刈り込まれた芝生のなかで一点、円形に花が植えられた場所がある。
「変わったデザインだなあ」と不思議そうな顔をしていると、やはり通訳氏が「ああ、そこは東西統一までレーニンの胸像が飾ってあったんですよ」と教えてくれた。
そんな歴史を背負ったドイツ連邦軍だが、自衛隊と決定的に違う点がひとつある。徴兵制だ。
ドイツ連邦軍は57年以降、一貫して徴兵制を敷いて来た。志願兵による戦前の軍はナチスの台頭には対応できなかった。国民が広く兵役を経験し、軍の暴走を抑えるという考え方が背景にある。軍人は「制服を着た市民」なのだという。統一時に東西合わせて約67万人もいたドイツ軍人は今や30万人足らず。徴兵制の意味が薄らぐなか、それでもドイツ国内では徴兵制を守ろうという意見が根強い。
連邦議会に議員の一人はこう言った。「どの国会議員の選挙区にも徴兵された人や家族がいる。国会議員は簡単に国外派遣や戦闘への参加を決めるわけにはいかなくなる」
日本にも戦後、徴兵制復活を唱えた人たちがいた。ただ、その肌合いは大分違う。復古調の主張がいかに多かったことか。そんな人たちの主張に乗るわけには行かないし、今さら日本の風土に徴兵制が似合うわけもない。
ただひとつ、心配なこともある。日本では自衛隊と一般の人たちの距離があまりにも遠くなりすぎた。シビリアンコントロールとは、国民一人一人が軍事に関心を持ち、責任を持って論じることなのに、一部の官僚に任せておけば良いと誤解する人も少なくない。
夜8時。支局で原稿を書き終えて街に出た。まだまだ外は明るい。支局長と一緒に近くのパブに入った。両端に椅子が約20脚ずつ並んだでっかい長机が10脚もあるだろうか。支局長が「ドイツのパブは、こういう長いテーブルにみんなでワイワイ座る場合が多いんだよ」と教えてくれた。
他人に関心を払う文化。徴兵制もその延長なのかもしれない。隣に座ったサラリーマン氏が勧めてくれた、豚肉をメダル状に切った料理「メダリオン」はやっぱり美味しかった。外では遅い夕暮れが始まりかけていた。
"Report" FromASAHI 第23回
"Report"FromASAHI No.22「冬のソナタの裏側で」
6月下旬、ソウルに行った。韓国軍と韓米同盟の取材だった。「今はとっても取材が難しいですよ」。出発前に韓国大使館の広報担当者に忠告された。在韓米軍の05年末までの一部撤退が決まったばかり。国防省も外交通商省もみんなピリピリしていた。出発前の取材申請では、軍にも国防省にも、その傘下の国防研究院にさえも、取材を断られた。
ソウルに着いたら、今度はイラクで貿易会社員の韓国人が殺された。夕食を一緒にした東亜日報の記者2人の携帯には頻繁に電話がかかってきた。「もう、みんな泊まりこみですよ」。韓国で一番酒が好きなのはマスコミ、と言われるぐらいなのに、彼らは酒を断って、食事もそこそこに張り番をさせられている外交通商省の建物に消えて行った。
翌日、街のあちこちで反米・反政府集会が始まった。朝日新聞ソウル支局が入る東亜日報本社のそばで、若い人たちが歩道に座り込んでいた。周りは取り締まりの機動隊で一杯。「韓国も自由になりましたよ。15年前なら、こんなことは出来なかった」。一緒に昼ごはんを食べた韓国政府の友人はこう言って苦笑いした。
ヨイドにある国会議事堂敷地内の議員会館に出かけた。韓米同盟維持派の国会議員に話を聞くのが目的だった。議員は「今日、あなたも含めてインタビューの申請が3件あった。でも、韓国メディアの2件は断った」と言う。理由を尋ねたら、「新米・親日派議員の〇〇様」という申請書が来たからだという。
原因は6月半ばに日本大使館が主催した「防衛記念日パーティ」にあったらしい。パーティは毎年、7月1日の防衛2法施行記念日の前後に開かれる。今年は「自衛隊誕生50周年」ということもあり、話題を呼んだ。この国会議員が会場のホテルに出かけると、マスコミのカメラがフラッシュを浴びせかけた。思わず引き返す人、顔を隠す人、堂々と入場する人。近くでは挺身隊(従軍慰安婦)問題の抗議団体が気勢を上げていた。翌日から、パーティ出席者の公職追放を要求する運動が始まった。日本大使館は「害が及ぶといけないから」と、出席者の公表を控えている。
夜、40代の友人2人と食事をした。一番の年長者は「若い人に意見すると、すぐに"あなたは徹底的に反共教育を受けているから、そう考えてしまうのだ"と攻撃されるんだ」と苦い顔をした。別の友人は「だが、若い彼らの言いたいことにも耳を傾けなければ。彼らも韓国人だ」と話す。
夜10時。遅れてきた知人の女性編集者1人を加えて、ビール・バーに行った。昔はどぶろくと焼酎が主力だったソウルの酒場も、こんな酒場が珍しくなくなった。この女性は「ねえ、日本でヨン様っていうけど、あれは発音がちょっと変よね」と言い出した。ハングルには"ン"の発音が2通りある。日本人にはちょっと難しい。「ああ、そういえば、日本では冬のソナタがブームだった」と、急に思い出した。
そうだそうだ。日本と韓国はこんなに近くなったんだっけ。女性編集者はビールを一口飲んで追い討ちをかけてきた。「あなたが珍しいのよ。日本の記者は最近、冬のソナタの取材ばっかりよ」
朝日新聞 牧野愛博
"Report" from asahi No:21 「大勲位」
"Report"FromASAHI No:21「大勲位」
5月(当号は平成十六年発行)、中曽根康弘元首相を訪ねた。82年から首相を5年にわたり務め、レーガン大統領との「ロン・ヤス関係」や「不沈空母発言」などはあまりにも有名だ。戦後の「日米同盟」路線を形づくった人と形容できるかもしれない。
中曽根氏の永田町での通り名は「大勲位」。中曽根氏は97年、叙勲の最高位である大勲位菊花大綬章に選ばれた。「死んだら天皇と同じ扱い」という寸評もある由緒ある位で、生前に受賞するのは当時、吉田茂、佐藤栄作両氏についで戦後3人目だった。理由は、吉田元首相が「日本の国際復帰」、佐藤元首相は「沖縄復帰の実現」だった。
そんな中曽根氏と97年以来、7年ぶりに会った。
取材で色々なことを聞いたが、舌を巻いたのは86という年齢を感じさせない明晰な頭の回転と豊かな知識だった。
一番面白かったのは、83年初め、戦後の首相として初めての公式訪問となった韓国訪問の裏話だった。中曽根氏は首相就任時に韓国大統領にかけた電話の内容、元大本営参謀の瀬島龍三氏を使った訪韓準備の模様、韓国大統領府での挨拶の内容など、まるで昨日の出来事のように語った。
永田町では、首相経験者を取材する際に、よく「総理」と呼びかけることがある。周囲の人間が気を遣って、首相を退いた後もも、「総理」「総理」と呼びかけるためで、中曽根氏の場合も、やはり「総理」と呼びかけた。
中曽根氏自身も、まだまだ気分は現役のようで、話の途中で小泉首相が話題になると、盛んに「小泉君」と言う。
ただ、それでも、中曽根氏の場合は妙にそれが型にはまる。多分、主張の裏側に、自分なりのきちんとした政策ビジョンや経験、人脈があるので、説得力が生まれるのだろう。絶叫して、雰囲気で押し通す小泉氏と比べると、重厚感が漂うのも無理はない。
中曽根氏が首相に就任した当時、朝日新聞は「田中曽根内閣」と猛烈に批判した。中曽根氏が戦後、一貫して唱えてきた「自主憲法」路線と一線を画してきた。あれから20年。当時は非常に好戦的な言葉として使われた「日米同盟」を、今では政治家が当たり前のように使う。中曽根氏がきっかけを作った自衛隊の海外派遣も珍しくなくなった。
朝日新聞も、こうして中曽根氏の持論を大きなスペースを割いて紹介するようになった。ただ、それは朝日新聞が中曽根氏の主張と同じになったということではない。社会の流れが、中曽根氏と正面から議論する必要性を生んだからだと思う。
それにしても。今回、私は「充実した取材だった」思った。示唆に富み、勉強になる話がたくさん聞けたからだ。永田町に、こうした満足感を与えてくれる政治家は、「大勲位」が嘆くように、本当に少ない。
朝日新聞社 牧野愛博
"report" FromASAHI第二十一回
“Report” From Asahi No:20 「280円」
4月下旬、九州地方のある自衛隊駐屯地を訪れた。5月中旬に掲載される「自衛隊50年第3部 日米同盟(仮題)」(当文章はテレフォン説法平成16年6月号掲載)の取材のためだった。
本来ならもっと早く訪れるつもりだったが、イラク人質事件の発生で取材がずれこんだ。世間同様、朝日新聞もご多分に漏れず大騒ぎだった。外務省詰めの記者は交代で記者クラブに泊り込んだし、遊軍の私もしょっちゅう、東京本社5階にある政治部デスク席のそばに呼ばれ、原稿の直しや記者への問い合わせなどの手伝いをさせられた。デスクの一人は、週末に自宅にいるところに、「人質解放」という連絡を受けた。「久しぶりに遊んでもらった子どもが、泣いてすがって困った」とぼやいていた。
そんな事情で一週間も取材のスケジュールが遅れ、焦り気味の訪問だった。正式な取材申し込みはすっ飛ばし、個人的な訪問という格好で飛び込んだ。
自衛隊は軍事組織だから非常に情報管理が厳しい。正式な取材は、すべて東京にある幕僚監部の許可が必要になる。場合によっては広報がくっついて来て、取材内容をチェックしたりする。段取りに時間がかかるし、断られる場合も多い。取材できても、なかなか本音が聞けない場合が多い。
ところが、「面会」という形なら、個人的なお付き合いになるので、広報の許可は要らない。その代わり、不用意に記事にしたりすると、会ってくれた自衛官に迷惑がかかる。信頼関係がないとできない取材方法で、こちらもおっかなびっくりで訪れた。
この自衛官は忙しいにもかかわらず、駐屯地の自分の部屋に私を招き入れてくれた。そしておもむろに、私にテレビのリモコンを渡した。「ちょっと会議があるので、テレビでも見ながら待ってて」。そして午後3時から6時まで、都合4回。彼は出たり入ったりを繰り返しながら、私の質問に一生懸命答えてくれた。
夜、彼には前から予定されていた会食があった。私は一人食事を済ませ、ホテルに戻った。10時過ぎ、シャワーを浴びていると、携帯が鳴った。「申し訳ない。ようやく体が空いたから、飲みにおいで」。ちょっとさびれたバーのカウンターで2人、焼酎のロックを飲みながら、取り留めのない話をした。
ふと、彼がつぶやいた。「洗濯物をかごに入れたままだった。早く干さないとカビちゃうかな」。その日の朝は雨だった。彼は早朝、洗濯機を回したが、干すのを断念して来たのだという。
彼はもう50代。いわゆる将官と呼ばれる制服幹部だ。専属の車も秘書もついている。そんな人が単身赴任で、洗濯も自分でやるのか。ちょっとおかしくなって「朝ごはんはどうしてるんですか」と聞いた。
彼は「駐屯地の中に食堂の建物があってね。朝7時半ごろ、280円持って食べに行くんだよ」と言う。秘書は「部屋まで食事を運びましょう」と気を遣ったが、「5分ほどてくてく歩いて食堂に行くのも良いもんだ」と断ったんだという。
彼は続けて、「そういえば、今日は叔母ちゃんが大騒ぎして迎えてくれたな」と思い出し笑いをした。その日の朝は雨。彼らは制服を着ているとき、カッパは着るが、傘はささない。「軍人なんだから、常に両手は使えるようにしておけ」という意味らしい。「防衛大学校からそう教えられた」と話してくれた。当然、濡れて食堂に現れたから、食堂の叔母さんが恐縮して、タオルで体を拭こうと大騒ぎしたんだそうだ。
その人の考え方や主張はともかく、こういう姿勢はなかなか真似ができないな、と酔った頭で思った。気がつくと時計は午前1時を回っていた。彼は「明日、もうちょっと話をしよう」と言ってくれた。別れ際、勘定を持とうとしたが、「いいよ、いいよ」と手で振り払われた。
翌日。約束の時間に部屋に行くと、彼は笑いながら、こう言った。「やっぱり、4000円くれるかな。こういうのはちゃんとしたほうが良いと思って」
長い記者生活ですっかりだらしなくなった私には、とても新鮮で、気分が明るくなる2日間だった。
朝日新聞社 牧野愛博
"report" from Asahi No:19
“Report” From ASAHI No.19 「27本+2本の旗」
3月、まるで初夏のような日差しを受けながら、台北市の中心部に建つ、横長で灰色の建物の玄関をくぐった。日本が1972年に断交した台湾外交部のオフィス。大理石が敷き詰められたホールに、ずらりと29本の旗が飾られていた。
玄関脇の受付で、通訳の助手が手続きを済ませる間、旗のひとつひとつに目を凝らした。正面にある階段を挟んで、すぐ両脇の2本の旗は台湾を象徴する晴天白日満地紅旗。これはすぐわかった。でも、それから後が続かない。薄いブルーにワシの絵柄の旗、様々な星の模様がカラフルに描かれた旗・・・。台湾が現在、外交関係を持つ国々の旗だった。
それでも数えたら全部で29本ある。エレベーターに乗るとき、助手に「今、台湾と外交関係がある国は27カ国だったっけ」と聞いてみた。助手は「あれ、そうだっけ?確か26だったような・・・」と考え込んだ。調べてみたら、昨年11月(記事は2004年5月時)に赤道直下の太平洋に浮かぶ人口8万人あまりのキリバスと外交関係を結んだことがわかった。
外交部の廊下を歩いていくと、アフリカや中南米の民芸品がやけに目立つ。台湾の置かれた位置をはっきり見る思いだった。
台湾には、自衛隊の企画の取材で訪れた。自衛隊のOBが台湾で大使館機能を持つ民間団体「交流教会」で働き始めたからだ。
OB氏の大事な仕事のひとつが、台湾にいる軍人たちとの交流だ。「誰とお付き合いするんですか?」と聞いたら、「元軍人たちだね」という答えが返ってきた。
現役軍人を台湾に送り込めるのは、外交関係がある27カ国だけだ。でも、27カ国は台湾の経済に惹かれて関係を持っている。軍事交流など意味がないのだ。だから、武器売買などのためにやってくる米国やフランスなどの「元軍人」たちと付き合うのだという。
日本は台湾を30年以上にわたって国扱いしてこなかった。日本の外交政策上、良かれと思ってやった政策ではある。が、国扱いされないことのヒズミも確実に広まっている。
数年前、台湾が米仏の新鋭戦闘機を購入した直後に、南西諸島付近で自衛隊機がスクランブルをかける事態が相次いだ。台湾の戦闘機が日本領空に近づいたのが原因だった。台湾の軍事専門誌の編集者が台湾の空軍パイロットに取材したところ、「せっかく新しい武器を手に入れたんだから、自衛隊のやつらに自慢してやろうと思った」と答えたという。
那覇の基地で、スクランブル任務に就く自衛隊パイロットに同じ事を聞いた。彼は「税金で買ってもらった高価な官品を、そんな理由で動かすなんて信じられない」と絶句した。
台湾総統選挙で、「独立派」と言われる陳水扁氏が再選された。自分を中国人ではなく台湾人と考える人が増えているという。それでも、台湾が本当の「国家」として脱皮できる日が来るまで、今しばらく時間がかかるような気がした。それは、台湾にも日本にも世界の国々にも少しずつ責任があることなのだろう。
朝日新聞社 牧野愛博(2004年5月)
"Report" from ASAHI第19回
お世話になります、静岡県はASA沼津、佐野新聞店でございます。
新年初めての”Report” From ASAHIになります。2004年時の記事ですので、当時の韓国はノ・ムヒョン政権でした。今ではイ・ミョンバク氏に代替わりし、政策の変化も見られます。四年前の事象を思い出し、今の情勢と比べるのも面白いかと思います。それではどうそ。
“Report”From ASAHI No:18 「新しい韓国人」
バレンタインデーの朝、東京都内のホテルオークラを訪れた。日本外務省の招待で来日した韓国政府高官に面会した。
彼の名前はイジョンソクさん。国家安全保障会議の事務次長だ。元々は学者で、北朝鮮労働党研究では右に出る者がないと言われた。それがノムヒョン大統領に請われて政権入りした。最も信用が厚い側近といわれ、大統領と毎日会って意見を交換する。イさんの考えが韓国の政策に反映される場合が多く、今では、韓国の外交政策の事実上の責任者とまで言われる。
ところが、このイさんの評判が、日本や米国では極めて悪い。私が昨年夏に会った韓国駐在の日本外交官も、イさんにまつわる愚痴をぶちまけた。曰く、「何度頼んでも会ってくれない」「米国大使館も、彼の顔を見た人間はいない、と文句を言っている」等々。直接会えないのでは、意見のすり合わせもできないから、当然、仲も悪くなる。
さらに、北朝鮮専門家というイさんの肩書きも誤解を深める一因になった。日米両政府には、彼が大統領を動かして、日米を軽視した民族重視外交を展開しようとしているように映った。結局、ついたあだ名が「韓国タリバン」。原理主義者で融通が利かないという意味を込めたのだそうだ。
今回の来日は、こうした誤解を解くためのもので、川口外相、福田官房長官、安倍自民党幹事長ら、政府与党の有力者と精力的に面会した。
朝9時過ぎ、ホテル6階にあるスイートルームに入った。午後一時には羽田空港を出発するイさんは、2泊3日の強行日程の疲れも見せずに笑顔で迎えてくれた。
韓国の外交政策、6者協議の見通しなどを学者らしく論理的に説明してくれた。インタビューはほぼ一時間。和やかに進んだので、終わりごろになって思い切って聞いてみた。
「日本や米国に、あなたのことをタリバンと呼んでいる人がいるんですが・・・」
彼はひときわ高い笑い声をたてて、「誰がタリバンって呼んでるの。そういう人がいたら連れてきてよ」と茶目っ気たっぷりに答えた。韓国の政策の正当性も一生懸命訴えた。事務次長という立場から、あまり表に出たくないのだとも語った。
「大統領に影響力のある方ならば、日本の指導者と直接パイプを持った方が良いのでは」と突っ込むと「誤解があったのは事実です。対話を増やす努力をしたい」と答えてくれた。
日本と韓国の距離は、映画やドラマなどを媒体に、最近急速に近づいている。けれども、政治家や外交官の間は、世代交代に伴って距離が遠のいているのが現状だ。昔は、戦前の日本占領統治の影響で、韓国や台湾には日本語を話せる人たちが多かった。政治家はそれを利用して交流を進めた。今、そういう時代は去りつつある。イさんも日本語はまったく話せない。
ドラマや映画を通じた交流の熱気が、政治家や外交官にも早く伝染するといいのにな、と帰り際に思った。
朝日新聞社 牧野愛博(2004年4月)
”Report" From ASAHI第十八回
“Report”FromASAHI
N0:17「自衛隊イラクへ」
「あの防弾チョッキは最新型ですね。私たちの部隊じゃ見たこともない。よっぽど気合が入ってるんだなあ、ってテレビ見ながら思いました」
一月のある夜、陸上自衛隊の知り合いが、酒を飲みながらつぶやいた。イラクに派遣された陸自先遣隊について感想を語ってくれたときのことだ。今回のイラクは件は、自衛隊を国内外にアピールする絶好の機会。“隊員を死なせてはいけない”という判断は勿論だが、そういう計算もあるんだろう。彼はそんな風に「最新型防弾チョッキ」が支給された背景を解説してくれた。
彼は続けた。「一緒にテレビ見てた若いやつが、しきりに、“良いな、俺も行きたいな”って言うんですよ」
イラクに行けば、特別手当が出る。サマワの宿営地の外で警備に当たれば、一日最高2万4千円、イラクの空港を輸送業務で発着する航空自衛隊員にも、一日最高1万6千円が支払われる。カンボジアのPKOでは、日本に戻ってきて新しい車を買った隊員が大勢いたそうだ。航空自衛隊では、花形とされた「ファイター」と呼ばれる戦闘機乗りに代わって、輸送機乗りが人気職種になりつつあるという。自衛隊は海外での武力行使が禁じられている。従って、海外に出る自衛隊員の仕事は輸送とか施設整備とか、本来裏方とされている任務が主になる。航空自衛隊の場合なら輸送機のC-1やC-130に出番が多く回ってくる。「C-130に乗っていれば、いつか海外に行ける」。そう志望動機を話す若者が多いと聞いた。
一方、家族は心配している。朝日新聞には一人で派遣反対の署名を集める女性の記事が載っていた。知り合いの自衛官の多くはこう言った。「自衛官の妻なら、“もしもの場合”を覚悟して結婚したはずです。あれはそういう教育ができない自衛官が悪いんですよ」
酒の席は二次会に変わり、時計は12時を回っていた。陸上自衛官は、真っ赤な顔でつぶやいた。「私は北海道の部隊にいたこともあるんです。あのころはソ連の上陸に備えた訓練ばっかりやっていたなあ」。そういえば、明日にも攻めてくるかという冷戦時代の緊迫感のなか、海岸では隊員ごとに、自分が掘る塹壕の位置まで決まっていたという話を聞いたことがある。彼のつぶやきは、めまぐるしく変わっていく自分の任務の中身に、当事者ですら追いつけない戸惑いの声のように聞こえた。
幸い、今のところイラクの自衛隊には何事も起きていない。首相官邸の知り合いは「基地の回りには防護壁を何重にも用意してある。自爆トラックも突っ込めまい。あの基地のなかにいる限り、まず死者が出る心配はないだろう」と予測して見せた。
何となく、ふわふわした空気のなか、時間が過ぎている。国会も「派遣が決まった以上は隊員の無事を祈ろう」とか、情緒的な意見が増えてきたような気がする。
当面決まっている派遣期間は今年12月14日まで(平成16年)まで。延長の可能性もある。イラク派遣はまだ始まったばかりだ。自衛官の無事は無論のこと、派遣の是非について考える努力を絶やしてはなるまい。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report"from ASAHI第十七回
”Report“From Asahi No:16「靖国神社」
2004年の元旦の正午過ぎ。正月から「自衛隊50年」の企画が始まり、年末年始と休みがなかったが、1月2日だけは新聞の発行がない。うるさいデスクからの電話がかかってこない間に急いで田舎の親に会ってこようと、東京の自宅で身支度をしていた。
そのとき携帯が鳴った。知り合いの韓国大使館の外交官からだった。「元旦からオフィスに詰める羽目になりました」。流暢な日本語を操り、彼は苦笑して言った。「小泉さん、またやってくれましたねえ。本国に急いで状況を報告しなくっちゃ」。
小泉首相はこの日、靖国神社を参拝した。韓国政府はたぶん、反発するだろう。友人の外交官は、その韓国政府の公式対応のために情報収集に走り回っていたのだった。
小泉さんが靖国参拝を周囲に伝えたのは、当日の午前9時。「やるかもしれない」という予測もなったが、秘書官5人もあたふたと駆けつけるほど、突然の参拝だったという。
首相になって4回目の参拝だが、どんどん意固地になっているように見える。そもそも小泉さんは「カッコよさ」を大事にする人だといわれる。人に言われて、自分の考えを変えることを極端に嫌う。昨年の内閣改造で川口外相の交代が囁かれた。周囲が「絶対に交代だ」「民間人なんてもう要らない」と騒いでいたとき、小泉さんは「絶対に代えるもんか。周りが騒ぐほど、ほくそえんでいた」という。
韓国や中国が「参拝は外交関係を損なう」と異を唱えれば唱えるほど、ムキになる。それどことか、「終戦記念日と日をずらして参拝したのに、こっちの配慮を理解しないとは何事か」と逆ギレする気配さえ見せている。
こんな騒ぎになっては、靖国神社に眠る方々も迷惑だろう。死を悼む気持ちがいけないとは思わない。しかし、哀悼の気持ちは人に見せつけるものでもなかろう。小泉さんを見ていると、「参拝したい」という気持ちより、「参拝しているんだぞ。こんな俺を見てくれよ」という主張の方がどうしても鼻につく。
昨年の総選挙。小泉さんと一緒に遊説した政治家が、あることに気がついた。小泉さんが演説を始める。聴衆は熱狂する。でも、熱狂するポイントが他の政治家と違うのだという。
普通、聴衆は話の中身で反応する。面白く、自分に関心のある話題になれば聞き入り、そうでなければしらける。が、小泉さんには当てはまらない。
小泉さんの演説に聴衆が反応するのは、小泉さんが絶叫したり、大きく身振り手振りをしたときなのだという。
「聴衆はね、、小泉さんの話を聞きに来るんじゃなくて、小泉さんを見に来るんだよ」。政治家はため息をついていた。
巧みな演説で聴衆を熱狂させるカッコつけの政治家なんて、ぞっとしない話ではある。
"Report"From Asahi第十六回
“Report” From ASAHI No:15「潜水艦」
先日、広島の呉から神戸まで、2泊3日で海上自衛隊の潜水艦に乗せていただいた。四国をぐるっと時計の反対回りに一周した。
「過酷で日の当らない任務」とでも表現したら良いのだろうか。それが私の印象だった。
艦は三層構造になっており、一番上が士官室や発令所、二番目に魚雷の発射室や一般の乗組員の居住区、一番下に蓄電池という構造。ここに75人の乗組員が生活する。私は士官室の一室をあてがわれたが、そこは3畳くらいの場所に小さな収納式の机と椅子、ロッカー、三段ベットだけの空間だった。一番上のベットに寝たが、とにかく狭い。高さは1mもないので、体をよじって潜り込む。横幅も肩幅ぐらいしかなく、艦が揺れると鉄柵に体が押し付けられて何度も目が覚めた。風呂はシャワーだけ。今回は2泊3日だったから制限はなかったが、長い訓練になると10日もシャワー禁止 になる。
あまりに狭いから、発令所のなかに艦長席という立派な椅子は見当たらない。艦長は自分が指揮を取るときはパイプ椅子を並べて座るのだという。
食事。彼らは24時間体制で仕事をするため、昼食と夕食の間に中間食を挟んで一日4食が出るが、主菜の皿とご飯茶碗と汁碗のみ。狭いから護衛艦のようなビュッフェスタイルも採れない。メニューはチキンカツ、天ぷらそば、散らし寿司など、それなりにバラエティーに富んでいたが、豪華というには程遠い。飲酒は一切禁止だから、食べるのもとにかく早い。5分くらいで黙々と食べて、次の当直と交代する。
潜水艦の圧倒的な攻撃力の源は奇襲攻撃だから、特に隠密性が求められる。普段からの教育が大事と、ドアには「音を立てて閉めるな」の表示。カーテンをかませて音が出ないようにしてある。娯楽でトランプは可だが、マージャンは音が出るから禁止。音楽やビデオも必ずヘッドホンをつけることが義務付けされる。
日本は原子力潜水艦を持たない方針だから、今の潜水艦は電池とディーゼルエンジンで動く。水中では電池で動くが、バッテリーが切れれば、ディーゼルエンジンを動かして蓄電しなければばらない。空気が必要だから、浮上して吸気する必要がある。でも、その時上空に敵がいたら?ひたすら潜ってぎりぎりまで我慢することになる。そんな訓練もある。二酸化炭素の濃度があがり、頭はボーっとしてくる。ひたすら体を横たえるなどして我慢するのだという。日光の当らない生活だから、昼と夜の判断は白色灯と赤色灯を付け替えることで表現して、体内リズムの維持に努める。
「我々の部隊は、変わらない部隊なのです」と幹部が言った。冷戦崩壊後、自衛隊は「存在する部隊」から「活動する部隊」に変わったと言われる。阪神大震災などの災害、PKO活動、不審船対応などでの活動ぶりは周知のとおりだ。
自衛隊の活動が良いか悪いかは別にして、少なくとも活動すれば、世間の評価の対象になる。しかし、潜水艦にそんな場は与えられない。潜水艦一隻がいれば、世界に冠たる米第七艦隊も行動が10日は遅れるといわれる。そんなすさまじい攻撃力から、彼らが行動するときは、まさに戦時しか想定されていない。
「私たちが出て行くようではおしまいだ。そう考えて行動しています」と30代半ばの幹部は慎重に言葉を選びながら、そう語った。
家族にすら満足に自分たちの行動を教えられない潜水艦乗組員たち。携帯電話も通じない海中で、汗と油にまみれて働く彼らを見ながら、自衛隊の別の側面を見た思いがした。
潜水艦を降りた日の夜。東京に戻って仕事をしていると、メールが一通届いた。あの若い士官からの便りだった。艦が神戸港に着いたその日、奥さんが出産したのだそうだ。もちろん、彼は出産には立ち会うことは出来なかった。嬉しさを込めたメールを読みながら、せめて、自衛隊のことを一生懸命考えて、一生懸命記事にしようと考えた。
朝日新聞社 牧野愛博
Report from ASAHI
“Report” from Asahi No:14「珊瑚海での出来事」
9月。61年前に日米機動部隊が初めて航空戦を繰り広げられた豪州の珊瑚海の海上にいた。米国のブッシュ大統領が唱える「大量破壊兵器拡散防止構想(PSI)」の海上合同訓練を集材するためだ。米国は同時多発テロが起きて以来、核や生物、化学兵器が世界中に広がることを心配している。「例え、正規の輸出入であっても、そんな危ない物は輸送の途中で押収してしまいたい」。そんな米国の思惑から始まった訓練だった。
午前6時。豪州輸送艦「サクセス」の船底で寝袋にくるまっていたら、「ウェイキー(起きろ)、ウェイキー!」と叫ぶ、陽気なアナウンスで起こされた。自衛隊は日本人の組織らしく、5分前から放送を入れるそうで、こんなところにもお国柄というものが透けて見える。
洗面を済ませて食堂に行く。通常、報道機関とは協定で、どこの軍隊でも尉官級の扱いをしてくれることになっているのだが、あんまり上等とは言えない食堂だった。ベーコンとパンケーキ、卵を取った。チョコソースかと思って卓上のビンを使ったら、バーベキューソースだった。パンケーキがお好み焼きになったが、味は悪くなかった。
食堂で、カップルを見かけた。豪州では女性がよく「お婿さん探し」で入隊するんだという。軍も心得ていて、ある程度はカップルでの行動を認めているんだという。夜、食後のコーヒーを飲んでいるとき、人なつっこい笑顔の黒人女性兵に、「ティムタム」という豪州で凄く有名なチョコレート菓子をもらった。なんて日常に近い光景なんだろう。軍と民間の垣根が低くなっている。そんな感じがした。
午前8時、やっぱり女性兵にもらった日焼け止めクリームを顔にベタベタ塗りたくって艦橋に出た。遠い洋上に標的となる、米軍がチャーターした貨物船が見えた。右側を豪州のフリゲート艦「メルボルン」、左側を米国のイージス駆逐艦「カーティス・ウィルバー」が航行していた。どの船も一番目視しにくいと言われるグレーの色で統一されている。
そこに、一隻だけ白い船体が見えた。日本の海上保安庁の巡視船「しきしま」だった。過去、欧州からの核廃棄物を運ぶ運搬船の護衛として作られた世界最大級の巡視船。特殊任務につくことが多く、船長の名前も公開されていない。そんな特別な船なのだが、やはり白い船体は目立つ。
米国はこのPSIを戦争前の平時に行うと想定している。であれば、この行為は軍事行動ではなく警察権の行使に他ならない。北朝鮮も刺激はしたくない。日本側が出した結論は「自衛隊ではなく海保の出動」だった。
ところが問題はこれだけでは終わらない。海上保安庁は法律で軍事行動が禁じられている。戦前への反省が原因のようだ。今回は米軍も豪州軍も出動している。困った日本は色々と細工をした。軍以外には各国の沿岸警備隊を出してもらった、情報のやりとりはするが一緒に臨検行動は取らなかった、報道陣には「演習」という事場をやめて「訓練」と説明した・・・等々。
午前10時20分。「しきしま」からヘリコプターが飛び立ち、貨物船の船上に到達した。一本のロープが垂らされ、黒ずくめの格好をした隊員たちが降下を始めた。昔ドイツ軍がかぶっていたようなヘルメットに、顔を隠し目だし帽。手にはサブマシンガン、腰には手錠をつけた彼らは、SST(スペシャル・セキュリティー・チーム)と呼ばれる部隊だ。詳しい訓練の概要や装備品、氏名は一切秘密になっている。彼らは船橋で船員を拘束、船長を尋問して科学兵器を押収。12時過ぎには訓練は無事終了した。
実は、日本にはこうした特殊部隊がもうひとつある。自衛隊がつくった特別警備隊(特警隊)だ。99年の能登半島沖の不審船事件の後、海上保安庁と海上自衛隊との調整がうまくいかず、新しく誕生した。まだ実戦経験はなく、その実態はベールに包まれている。「海保も同じようなものを持っているからねえ。税金の二重投資かもしれないね」。関係者からはそんな声も聞こえてくる。
こうした実態を見てみると、「どうして日本はこんなに複雑なんだろう?」ち思いたくなる。「自衛隊が最初から行けばいいのに」。「いやいや、訓練への参加自体が間違っている」。そんな声が現地の報道陣からも漏れていた。私の第一印象も「もっとすっきりすればいいのに」だった。
でも、訓練を見ながら、あれこれ考えていたら、「このゴチャゴチャしたところが、日本が持つ課題を示してくれているのかも」という気持ちになった。米国や豪州のように、くったくなく軍人たちが当たり前のように参加する世界。それも良いだろう。でも、戦後、軍事を拒否してきた日本人には、外国のような軍事知識も、関心も無い。(大体、自分自身が艦内での出来事にいちいち興奮していた)
そんな状況で、それこそすっきりした結論なんか出したら、かえって後悔するんじゃないかと思う。脅威がある以上、日本人は軍事的な知識も関心も持つ努力をしなければいけない。そうすることで、憲法9条が持つ大切な意義も確認できる、生かし方もわかるというものではないだろうか。
色々考える材料を提供してくれた「サクセス」に感謝をして、PX(艦内の売店)で「サクセス」の艦影を彫ったプレートを買った。自宅に飾ることにした。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report" from ASAHI第十四回
“report” from ASAHI No:13 「内閣改造」(平成十五年十一月)
9月22日午後一時半。首相官邸一階にある記者会見室で、私は同僚の記者4名と一緒に中央前列に陣取り、小泉第二改造内閣の新閣僚の入場を待っていた。
まず福田官房長官が入場。閣僚名簿を読み上げる。その後に、新任と留任の閣僚16人の会見が始まった。何しろ、16人だ。午後四時半からは、皇居で認証式も控えている。実質二時間ぐらいで16人もの記者会見を次々とこなさないといけない。天皇に待ちぼうけを食わせるわけにはいかないから、司会をする内閣広報官も必死だ。事前に、「一人3分でお願いします」とクギを刺す。
そうはいっても、こっちも商売だから、おざなりに「おめでとうございます」と話したってつまらない。毒の聞いた質問のひとつふたつ浴びせて、一体どういう内閣なのかを輪郭だけでもつかんでおきたい。
事前に打ち合わせをして、共通の質問を2つぶつけることにした。総裁選のしこりが残り、政策というより人気優先内閣という顔ぶれであったため、同じ質問をして、反応のばらつきを見ようという作戦だ。質問は①総裁選の小泉公約を支持するのか?②道路公団と郵政の民営化を支持するのか?という内容にした。
会見が始まった。中央紙のほかに地方紙も大勢詰めかけ、100人ぐらいの記者で会見室があふれている。3分という制限時間じゃ、質問なんか2つか3つが良いところ。他社に質問をさらわれるんじゃないか、と心配したが、決まったばかりの閣僚相手に何を聞いて良いかわからないのか、他社は殆ど質問しない。お陰で、朝日が7割ぐらいの質問を浴びせる格好になった。
反応は様々でなかなかに面白かった。
前政調会長の麻生太郎総務相は毒舌で有名な人。たまたま、昔、「麻生番」をやった同僚の記者が質問すると。ちゃめっ気たっぷりに「あなたの社名とお名前は?」。こちらが社名と姓を名乗ると、麻生氏は自分で記者の下の名前まで紹介して笑いを誘った。ただ、民営化の是非については、明確な答えは帰ってこなかった。
中川昭一経産相は、実は前内閣でも入閣を求められながら、派閥の事情で断った経緯がある。そこを突かれると、「忘れた」。この人も民営化には明確な答えがなかった。
小野清子国家公安委員長は、ちょっと寂しい会見だった。こっちが質問している端から、役人が用意した答弁要領(あんちょこ)をペラペラとめくっていく。何とか答えをごまかしながら、目指す答弁を探す。見ていてこっちがつらくなった。そう言えば、田中真紀子元外相は、国会答弁の時に答弁内容を理解できない人だった。相手が質問してくると、どの答弁を返してよいかがわからない。だから、彼女の答弁書には番号がふってあって、後ろに控える秘書官が小声で「5番、5番の答弁です、大臣!」とやっている。あるとき、同じ要領で秘書官が「11番です!」と助け舟を出すと、田中氏は答弁の冒頭、「11番!」とやってしまったという。「あの答弁書はちゃんと修正したんだろうか」という関係者のぼやきを聞いたが、これが歯切れが良いともてはやされた人の正体か、と寂しくなった。
そのほか、次の参院選で引退が決まっている野沢太三法相は、答弁はしっかりしていたが、なにぶん耳が遠い。こっちが大声で何度も繰り返さないと、答えてくれなかった。「何でこんな人選んだんだろう」。どこかの記者がぼそりとつぶやいているのが耳に入った。
すったもんだで二時間余。何とか会見は終わったが、「やっぱり、この内閣は人気取り内閣なのね」というのがこちらの感想だった。小泉首相がどういうポリシーでこのメンバーを選んだのか。その共通項は、私たちの質問からは浮かび上がってこなかった。
小泉首相は今回の組閣の大半を、側近の秘書官と2人で決めたという。「小泉氏の特徴は人気を気にすることと、過去の自分の業績に対する批判を許さない、ということの2点だ」と解説してくれた政府高官がいた。
確かに、今回の改造を見ると、小泉氏は青木幹雄参院幹事長や森善朗元首相が強く求めた「民間人閣僚の全員更迭」を頑強に拒み、一人を除いて全員留任させた。「自分がやったことは正しい」という判断からだ。安部晋三幹事長の起用は前者の理由にほかならない。
今、見過ごしてはいけない点がある。イラクへの自衛隊派遣だ。首相官邸は派遣そのものが支持率低下につながるとみて、派遣決定を総選挙後に先送りする事を決めているようだ。私たちの取材では、行くこと自体はとうの昔に決断しているというのにだ。
こんな大事なことを、絶好の機会である総選挙で有権者に問いかけずに先送りする。総選挙から年末にかけての、イラク派遣に対する政府の動きを見ていれば、この内閣の正体が随分と明らかになるのではないだろうか。
"report" fromASAHI第十三回
“Report”FromASAHI
No:12「6者協議」
8月末、中国の北京で北朝鮮の核開発を巡る国際会議「6者協議」があった。日米韓中ロ朝の6カ国が参加したこの会議は、いつもの国際会議とはちょっと雰囲気が違っていた。
国際会議や会談の場合、通常、出席した国ごとに記者会見が開かれ、会議や会談でのやり取りの説明がある。もちろん、自国に都合の悪い部分やまだ交渉途中の事項は隠そうとするから、すべてが明らかになるわけではない。それでも、「米国がこうこう発言した」「これに対して我が方(日本)はこうこう答えた」という説明がある。これが、よく新聞に「日米首脳会談要旨」と言った形で公開されることになる。韓国などは非常にマスコミ対応が良いというか、会談が終わってもいないのに、事前に相手国と打ち合わせた「会談要旨」を配ったりする場合がある。韓国ではマスコミの力が強いので、「原稿をゆっくり書きたいから事前に資料を渡せ」という要求が通るんだ、と知り合いの韓国人記者が教えてくれたことがある。
もちろん、取材する側としては、「都合の悪い部分」も書きたいから、外交官が開催国で使う携帯電話をこっそり調べて夜中に電話したりもする。ホテルの部屋は厳重に警備されているケースが多いので、外国で取材先と二人きりになれるケースは少ない。電話が一番有効な取材方法で、私も相手がまだ外交交渉中なのにしつこく携帯に電話攻撃をした経験がある。
6者協議はどうだったのだろうか。記者説明はほとんど木を鼻でくくったようなものだったし、個別取材に対する警戒も人一倍だった。外務省の課長と記者の間で、「これ以上言えない」「もうちょっと詳しく」などというやり取りが延々続き、記者泣かせの会議になった。
原因の一つは、北朝鮮を刺激しないように、中国が参加国に対してかん口令を敷いたことだ。ただ、もっと根本的な理由は、やはり北朝鮮という国になるといえそうだ。6者協議に出席した日本外交官に話を聞いたら、「やはり異様というか異質な存在の国だった」と答えてくれた。
彼に言わせると、国際会議は外交交渉だから、それなりに緊張はする。しかし、同じ価値観を持つ国どうしであれば、ざっくばらんな意見交換も可能だ。昔、サミットのシェルパ会合(首脳会談のお膳立てをする役人たちの会合。サミットという頂上を目指す政治家の道案内をするという意味でシェルパ会合と呼ぶ)に出たことがあるのだそうだが、言いたいことを自由に言う空気が漂っていて、6者協議なんかよりずっとリラックスできたと改めて懐かしく感じたそうだ。
北朝鮮という国の代表がそこにいるだけで空気は一変する。今回も、どの国も原則論しか話さず、さながら「外交交渉」というより、「大演説大会」という模様だったそうだ。
会議場のテーブルにしても、プライドの高い北朝鮮をどうやって納得させるか、席順で苦労したそうだ。73年、パリの国際会議場でベトナム戦争の和平協定が結ばれたことがあったが、そこでも席順で延々もめ、結局、丸いテーブルにして切り抜けたことがあった。そういうい冷戦時代の対立の残滓がまだ残っていることを、思い知らされるようなエピソードだった。
もちろん、北朝鮮の人たちだって鬼や悪魔ではない。代表を務めた金永日外交次官もスタイリストで有名で、会議期間中、スーツをすべて着替えて出てきた。仏語と英語に堪能な外交官なんだそうだ。こうした人たちと腹を割った話ができる日が早く来ないものか。
6者協議は、北朝鮮取材をしていていつも考える事を、改めて反芻させられる出来事だった。
朝日新聞社 牧野愛博
この記事は平成十五年の十月号に掲載されたものです。6者協議を初めとした、北朝鮮問題は拉致をはじめとしてもう五年かそれ以上の時間が経ちました。多くの時事問題が出てくる中、少しでも頭に留め置きたいものです。当コラムがお役立ていただけると幸いです。
”Report” FromASAHI第十二回
“Report” From ASAHI
NO:11「悪代官」
「ここ数ヶ月でとても有名になった1人は?」と言えば、日本道路公団総裁の藤井治芳氏だろう。ふだん、政治に興味のない私の妻でさえ名前を知っている。写真週刊誌やらテレビのワイドショーやら、この人が取り上げられない週はない。「道路公団の民営化を邪魔する人」「気に入らない部下を左遷する人」「政治家と酒食にふける人」と、まさに悪口のオンパレード、“現代の悪代官”といった様相だ。
実は、この構図は昨年来、民営化にかかわる登場人物たちが繰り広げてきた「得意のパターン」でもある。
道路公団の民営化問題は「正義の味方VS悪代官」という構図で、これまで国民の皆さんの耳目を集めてきたのだ。あるときは、民営化を拒み、採算度外視で道路を造りたがる自民党道路族VS構造改革を唱える小泉首相。またあるときは、国民の期待を背負った作家の猪瀬直樹氏ら道路関係4公団民営化推進委員会の“革新派委員”たちVS推進委を穏便に終わらせようとする今井敬委員長ら“保守派委員”たち、という構図だった。そして今は「悪代官」藤井総裁、である。
藤井総裁は批判されても仕方のない、めちゃくちゃなところがある。ほとんど記者会見に出てこない。一度、民営化推進委員会を傍聴に行ったら、藤井総裁が出席していた。「こりゃあ取材しなくちゃ」と、休憩時間になるまで、廊下で待ちかまえた。ところが、「さぁ出てきた」と思ったら、藤井氏は周囲を5,6人の部下に囲まれ、脱兎のごとく裏口のドアから走り去ってしまった。このほか推進委や国会での答弁も、金きり声をあげるような感じで、氏をよく知る人に言わせると「昔と全然変わった」「感情的になっている」のだそうだ。
藤井氏が「悪代官」になればなるほど、一時目立たなくなっていた道路公団問題も脚光を浴び始めた。小泉首相も、「道路民営化問題を自分の総裁選の公約に入れる」と、大張り切りだ。
8月に入った今、首相官邸からは藤井氏の更迭をにおわせるような様々な発言が聞こえてくる。更迭時期について「内閣改造時」とか「総裁選時」とか、したり顔で解説してくれる人が永田町のあちこちにいる。でも、藤井氏を替えれば、それで済むほど、問題は簡単なのだろうか。そこには様々な人々の様々な思惑が渦巻いている。
二年ほど前、藤井氏はむしろ、自民党の抵抗勢力と戦う側にいた。党道路族の地元の道路建設予算をどんどん絞り込んだ。道路族は怒り、「藤井を総裁から引きずり降ろせ」という声が相次いだ。当時の小泉首相は、周囲から「今、藤井を切っても、藤井が正義の味方になるだけだ」と言われて、更迭を踏みとどまったという話を聞いたこともある。今、道路族は融通の聞かない藤井氏をこれ幸いとばかりに切り捨て、自分たちのコントロールが利く人物を新しい民営化会社のトップにすえようと狙っているという。
その昔、政治部の大先輩が「日本の政治報道の痛恨事のひとつは、金権腐敗報道にある」と話してくれたことがある。金権腐敗は、構図がはっきりしている。「金もうけに目がくらんだ金権政治家は悪い」と書けば、とりあえず読者は納得してくれる。新聞社は長く、その構図に安住して、「どうしたら金権腐敗がなくなるか」という提言報道を怠ってきた。結局、日本の政治報道は批判記事ばかり、提言記事はちょっぴり、という自体を招いたのだという。
別の先輩からは「自分が政府の一員になったつもりで、原稿を書きなさい」とも言われた。論理破綻したり、のぞき見主義的な報道は極力避けよう。昨日書いたここと、今日書くことに矛盾があってはいけない。「藤井氏を替えろ」と書くだけでなく、「なぜ替えなければいけないのか」「替えてこうしよう」という記事を書こう。締め切り時間は迫り、気持ちは焦る、という場面の連続だけれど、そんな記事を書かなくちゃと、改めて反省した。
Report From ASAHI第十一回
“Report” FromASAHI
第十一回「盧武鉉大統領」
韓国の盧武鉉(ノムヒョン)大統領が6月初めに日本を訪問した。これが今、韓国内で「敗北外交だった」と猛烈な批判を浴びている。
大きな議題は、核の開発疑惑で揺れる北朝鮮にどう対応するか、だった。強硬路線の米国と強調歩調を取りたい一方で、平和的に解決したいと考える日本の立場は、「対話と圧力」路線。これに対して、金大中前大統領の「太陽政策」を受け継ぐ盧武鉉大統領の政策は「対話による平和繁栄路線」だった。
首脳会談の前、日本政府の高官に話を聞くと、「幾ら日韓関係が大事といっても、日米関係に勝るものはない。対話は大事だが圧力に触れないわけにはいかない」と話してくれた。
でも、韓国側はそんな日本の姿勢を読み切れなかった。事前に麻生太郎自民党政調会長の「創始改名発言」があったり、日本の国会で有事法制成立が予定されたりしたことから、韓国では「日本は歴史認識や軍事問題で韓国側に負い目がある。北朝鮮問題で強く押せば日本は折れてくるに違いない」と考えたという。
東京・四ツ谷の迎賓館で行われた首脳会談。経済や文化など幅広い分野で話し合われたと発表されている。が、実際は、「盧武鉉大統領が小泉首相に、対話路線を取るように延々と説得していた」と日韓外交筋の人が明かしてくれた。首脳会談は、事前に何をしゃべるか、事務方が応答のペーパーを用意しておく。会談後の記者説明は、そのペーパーに沿って説明されただけだったという。
必死に訴える大統領に、小泉首相は「うんうん」と頷いたという。大統領は「説得が成功した」と思ったそうだ。ところが、会談後の記者会見で、首相が「圧力」にも言及。焦った大統領は「バランスが取れないと思って、対話路線を強調してしゃべった」と、後に同行の韓国記者団に明かしている。
大統領は弁護士出身の在野政治家だ。外交に携わった経験は皆無だし、大統領のブレーンも若くて政府の行政に精通した人はほとんどいない。このため、外交戦略の事前準備が整わなかった。大統領は帰国後、保守層からは「米国訪問のときは強硬路線に転じると言っておきながら、また対話を言い出した」と攻撃され、元々の支持層からは「日本をもっと強く説得すべきだった」と責められている。
大統領は訪問最終日に国会で演説をした。そこで、日本の有事法制に激しく反発する国内世論に配慮し、「不安と疑惑の目で日本を見守っている」という一文を加えた。ただ、これも韓国国内では「追求の仕方が手ぬるい」と批判を浴びているという。
でも、大統領は最後まで「自分の周囲の準備不足が原因」などという責任転嫁はしなかった。
訪日を終え、羽田空港に向う車中で、大統領はこう語ったという。「私の演説の手直しが、手ぬるいと言われることはわかっています。これから国に帰れば、私は強い批判を浴びるでしょう。しかし、演説であれ以上の発言をすれば、韓国と日本の関係は壊れてしまう。あれで良いと私は思ったのです」
信念を貫き、その責任は全部自分が背負う。日本の政治家に何人いるだろうか。
朝日新聞社 牧野愛博
"report"from ASAHI第十回
“report” from ASAHI NO:9「首相官邸」
5月10日(平成15年)から首相官邸に通うようになった。96年以来、7年ぶりの官邸詰め担当だが、舞台は大きく変わった。1929年に建設され、5・15事件(32年)や2・26事件(36年)の舞台になった旧官邸は今はなく、昨年4月から新官邸が登場した。地上5階、地下1階で、述べ床面積は旧官邸の2.5倍の二万五千平方メートル。首脳外交にふさわしい場とするため木や石、和紙などを多用し、「日本らしさ」も演出したそうだ。
「ほー、こりゃ立派だ」と思ったのは最初だけ。次々に「戸惑う」事態が発生した。
まず、IDカードを作らされた。これにはバーコードが入っていて、官邸に出入りするときは、必ず職員が私のカードに読み取り機を押しあて、「ピッ」とやる。まるで自分が野菜か肉にでもなった気分だ。昔もIDカードはあったが、「ピッ」はなかった。上司のデスクに愚痴をこぼしたら、「俺なんか記者クラブ員じゃないから、一ヶ月前から予約が必要だって言われたよ」とぼやかれた。
官邸が崖に建っている関係で、1、2階が半地下構造になっている。1階が記者クラブと会見場、2階が食堂、3階が一般玄関とホール、4階が官邸スタッフ事務室、5階が総理執務室と行った具合だ。記者は1階から3階まで通じたエレベーターしか使えない。4、5階に行くためには別のエレベーターが必要で、これは常に官邸スタッフの警備の目が光っている。取材は3階ホールでしかできず、しかも普段は白いビニールテープが貼られた範囲内でしか待機できない。
旧官邸はどこでも廊下なら行き放題だった。総理執務室の前まで押し掛けて、その前で総理が顔を出すのを「今か今か」と待ったものだった。本当かどうか知らないが、宮沢喜一首相に会いに来たブッシュ米大統領(現大統領の父)が、部屋の前にたむろする新聞記者を見て、「日本は情報公開が進みすぎているんじゃないか」と皮肉を言ったという冗談話を、先輩から聞いたことがある。
今は執務室の前まで行けないから、総理がだれと会っているのか、本当のところはわからない。記者団の希望で執務室の前の廊下にモニターカメラを置いてもらったが、執務室前の廊下は二重廊下になっているため、カメラはあまり意味を持たないのだ。
「政府の情報を何でも公開するのは如何なものか」と政府の要人は口を揃えて主張する。でも、情報公開大いに結構ではないか。旧官邸当時だって、首相は本当に秘密の会合をしたいときは、官邸を使わずにホテルの奥の部屋とか公邸を使ってうまくごまかしていた。
逆に政府の情報操作が進む方が恐ろしい。記者は情報飢餓になるから、何が何でも政府要人に取り入ろうとする。ある日、官房長官の記者会見で女性記者が質問をした。長官がつれない返事をすると、その記者は会見後に長官に駆け寄り、「あんな質問をしてすみません」と謝っていた。なにをかいわんやである。北朝鮮や経済危機など、政府の対応が厳しく言及されなければならない場面が予想される時期なのに。「新しい官邸は記者を駄目にするんじゃないか」と政治部に復帰早々、気持が暗くなっている。
"Report" from Asahi第九回目
“report” from Asahi”
No:8 「当打ち」
統一地方選挙が日本全国で行われた。私の住む街では衆院補欠選挙も行われた。NHKの開票速報は「開票率0%」で女性候補の当選確実を伝えた。
なぜ、こういう報道ができるのか?
報道機関各社が必死になる「当打ち」と呼ばれる“当選速報競争”の所産だ。
10年前。私も支局勤務時代、参院選挙でこの当打ちをやらされた。「一秒でもいい、他社より速く当選確実を出せ」と支局長に言われた。
朝日新聞社は「選挙の朝日」とも言われる。支局長は「確実性と速報性で、わが社は定評があるのだ。他社に負けてはいかん」と言う。速報性という点での最大のライバルはNHK。全国に張り巡らせた放送局と大量の人員を動員しての仕事には迫力がある。
「どうせ、朝刊が出るまでにちゃんと当を当てればいいんでしょ」と分かったような口をきいたら、「バカ」と叱られた。提携関係にあるテレビ朝日の人間が支局に来ていた。私が当を打つと、テレビ朝日がそれを受けて、放映している特別番組「選挙ステーション」で当選確実の一報を流すのだという。支局長は「テレビと連動しているから負けられんのだ」とぶった。
候補者は3人で定数は2。過去の得票を調べると、所属政党の支持率に大きな差があった。一週間前に行った世論調査でも同様の結果が出た。
「この状況なら多分、開票直後に当を打たないと負ける」と思った。
当時は投票締め切りが午後6時。即日開票で、午後7時には一番早い山間部での開票が始まる。一番早く作業が始まる開票所に、地元の通信局記者に走ってもらった。
国政選挙の場合、都道府県庁の選挙管理委員会が、各開票所から集まった中間集計を総合して、開票作業の合間に「開票速報」を流す。「開票率〇〇%」というヤツだ。しかし、それを待っていては絶対負ける。最初の開票速報は午後9時ごろの予定と聞かされていた。
一番早い開票所の記者席から双眼鏡で「ヤマ読み」をやってもらった。開票された後、候補者別に分けられた票の多い少ないを読み取るのだ。もう少し待てば、計算系を使った正確な票数がわかるのだが、それすら待てない。
事前の調査で、その開票所の候補者別得票数と得票率の歴史は、すべて頭の中に入っていた。その数字と大差なければ、まず予想は覆らない。
当日、投票を終えた人をつかまえて「誰に投票したのか」と聞く“出口調査”をしていれば、もっと確信が持てたのだが、予算の関係でそこまでできなかった。
午後7時半ごろ、支局でジリジリしていた私の専用電話に、通信局の記者から連絡が入った。「ヤマの割合は60対35対5ぐらいだ」という。間違いない。ちょっとためらったが、当を打った。本社の社会部に電話をして「当選確実」を連絡した。
後で聞いたら、NHKの方が数分早かったと聞かされた。不思議に悔しくなかった。むしろ、自分が当を打った候補者が本当に「当選」になるまで、気が気でなかった。
早く当選確実を知ることは、報道方針を早めに固めることにつながる。見出しの取り方、解説記事の中身、今後の政局展望などに大きな影響が出る。政治部時代、選挙結果がもとで内閣が退陣したり退陣騒動を起こしたりした光景を何度も見た。
と、同時に「当打ち」報道に熱中することへの恐さも感じる。勝ち負けにこだわりすぎることは、選挙では本当に伝えなければいけない何かを忘れさせることにならないか。人は従来、勝負事に関心を持つ動物だ。単純で解りやすい話に集中するのは、ある程度仕方がないかもしれない。政治部でも、不明瞭で分かりにくいことこの上ない「政策」の話より、「選挙」や誰が強いか弱いかを伝える「政局」の話の方が、はるかに読者受けが良い。
でもそれだけでは拙すぎると思う。5月10日付け(2003年6月号)で1年8ヶ月ぶりに政治部に戻る。7年ぶりになる首相官邸詰めだが、どこまで「つまらない話」を「面白く」伝えるのかが、一つの課題だとおもっている。
朝日新聞社 牧野愛博
"Report" from ASAHI第八回目
“Report”From Asahi No:7 「前例踏襲」
イラク戦争が始まった。世界の各地から、米国の行動に対する様々な声が聞こえてくる。支持する英国やスペイン、反対するフランスやドイツ。日本は、と言えば、予想されたとおり「米国支持」である。
何も支持が悪い、ということではない。イラク戦争が終われば、次に国際問題の焦点になるのは北朝鮮だ。先月、都内で会った米政府関係者によれば、米国では現在、朝鮮半島にいる在韓米軍の後方撤退シミュレーションや北朝鮮による日本本土攻撃に伴う被害予想シミュレーションなどが、盛んに行われていると言う。「北朝鮮から身を守るためには、米国の力がどうしても必要」というのが日本政府の論理であることは、朝日新聞が繰り返し報道している通りだ。
しかし、イラク戦争で「米国支持」を決めるまで、一体どれだけの議論と検討がなされたのか、はなはだ心もとない。
あっさり「支持」と言わず、「やむなく支持」とか「しぶしぶ支持」とか言えなかったものか。
日本政府の場合、こうした政治判断が日常的に求められる場所として国会(政府答弁)がある。私が政治部の外務省担当をしていたころ。国会開会中となると、午後五時ごろ、役所のなかにアナウンスが流れる。曰く、「日米安保課と北東アジア課とロシア課は、国会答弁作成のために待機せよ」といった具合に。その日の昼間、役人たちは翌日に国会質問に立つ野党議員の事務所を駆けずり回って、質問内容を聞き出してくる。「〇〇党だけ、なかなか教えてくれなくて」というぼやきを聞いたこともある。
そして深夜23時ごろ。そうした部署の課長たちと食事をしながら取材をしていると、頻繁に彼らの携帯がなる。部下たちが作成した国会答弁原稿のチェックを求めてくるのだ。「うんうん、それでよし」、「一度役所へ戻る」など、指示を出す課長たち。翌朝には、この答弁書を各大臣のもとへ届けなければならない。首相の勉強会は朝6時には始まる。
こうして未明の2時3時まで続く原稿作成現場(役所)の建物脇に、上客待ちのタクシーが長い列をつくる。
政治家不在、議論不在の作業のもとでは、「前例踏襲」も作業の大きな助け舟になろうか、というものだ。難しい問題であればあるほど、「とりあえず前回の答弁を参考にして」という思考方式に陥りやすい。こうした役人たちの仕事に乗っかった政治家たちに、どれほどの見識を期待できるのか?
ある首相は、後任の首相に対して「自民党総裁と日本国首相は、米国に対して賛成するしかないのだ」とのたまったという。
米国の核の傘に入り、在日米軍の指揮系統に自衛隊が組み込まれ、そのおかげで経済的恩恵を多大に受けてきた日本は、現実問題として米国と歩を共にしていくしか選択肢がないのかもしれない。
にしても、だ。米国だって間違えることがあるだろう。数年前、米国大統領を取材した同僚によれば、ブッシュ氏は興味のない質問には落ち着かず、軍事とか安保とか好きな話題になると突然シャンとする「危ないヤツ」だったという。
いつかは、米国に対して「ノー」と言わなければならないときが来るかもしれない。「前例踏襲」では済まなくなる日が来る。大多数の人はそう心配している。細川護熙元首相が日米関係を「大人の関係」に例えて喝采を浴びたのは、紛れも無く、そうしたフラストレーションを反映していると思う。
政治部の記者として日本の重要政策を取材したとき。素晴らしい考えを聞き、胸を躍らされた相手が役人ばかりだったという現実は、今も変わっていない。私が抱いた寂寞感が解消される時期が、この国に本当にやって来るのだろうか。
"Report"FromAsahi第七回目
“Report” from Asahi No:6「自転車」
先日、朝日新聞社が業務提携している韓国・東亜日報社を訪れた。東亜日報は創刊83年を迎える名門新聞社で部数は200万部を超え、朝鮮日報、中央日報と並ぶ「メジャー3紙」と呼ばれる全国紙だ。数ある朝日新聞の提携先のなかで最も関係が深く、記事の交換以外に共同世論調査や記者交流、シンポジウム共催などを行っている友好社でもある。
ほぼ4日の間、同社幹部と意見を交換したが、30代後半の中堅販売局員との会話が印象に残った。私が「東亜日報の紙面を紹介するチラシかパンフレットを見せて欲しい」と頼むと、その局員は「そんなものはない」と言う。「それじゃ、他紙と差別化できないでしょう」と食い下がると、彼はあっさりと「紙面で選ぶ人なんて韓国にはいない」と答えたのだった。
「東亜日報は伝統的に反権力の名門新聞」という固定観念があった私は、この一言で「うーん」と黙り込んでしまった。「東亜日報に限らず、韓国の新聞社は自転車や冷蔵庫、カーペット、扇風機などを持ち出して新聞拡張に精を出しているという。ここまで紙面宣伝を無視するとは。なぜ、そうなったのだろうか?」
いろんな人に話しを聞いてみたが、どうも韓国社会における「新聞の権威」に原因があるんじゃないか、という結論になった。「新聞はウソを書く」「新聞は権力におもねる」「新聞はぶれる」-。こういった世間一般の認識が、「どんな新聞もみーんな同じ」という結論を導いているのではないだろうか。
東亜日報は金大中前大統領の出身地で知られる全羅道(韓国の西半分の地方)を根拠地にしている。全羅道は農業が盛んな地方だが、人口はそれほど多くなく政治的に不遇な場所とされる(光州事件も全羅道で起こった)。工業が発展し、歴代大統領を輩出した慶尚道(東半分の地方)にいつも政治的主導権を握られっぱなしだった。このため、東亜日報は自然と権力批判報道が売り物になったといわれる。東亜日報の主力読者に低所得層と知識人が混在しているのもこのためだ。
ところが、当初支援した金大中前大統領が「権力と癒着するマスコミ」批判を始めた。政府が各新聞者への税務調査まで始めると、東亜日報は態度を変え、猛烈な「反金大中キャンペーン」を展開した。金大中氏の後継者で新世代から支持を受けたノムヒョン新大統領の批判も猛烈にやった。韓国人の知り合いの多くから「東亜日報の考えがわからない」というぼやきを聞いた。
こうした政治的な思惑と行動は、別に東亜日報に限った話ではない。中央日報社は三星(サムソン)財閥をバックにしているし、韓国の政治記者の半数は政治家志望と言われている。私が韓国に留学していたころ、政治記者の一人が政治勢力と手を組み、反対勢力の追い落としのための怪文章を作って逮捕されるという事件も起きた。韓国人の多くは「新聞は権力に弱い」「ウソも書く」と思っているようだ。
要するに、新聞に「(世間の代表という)権威」がないのだ。韓国人は簡単に新聞を見捨てる。かつてメジャー紙だった韓国日報や京郷新聞は簡単に没落してしまい、部数低迷に苦しんでいる。多くの新聞記者がベンチャー企業に転職して、業界から流出している。
こうした信頼感のなさが新聞の紙面力を弱くして、紙面を重視した販売ができない状況に追い込んでいるのだと思う。
では朝日新聞はどうか?幸い、世論調査によれば新聞に対する日本人の信頼度は非常に高く、8割以上の人が「新聞は真実を書く」と信じてくれている。なかでも朝日新聞に対する信頼度は高く、これが企業や役所、教育関係者などに購読者が多い決定的な理由になっている。
「自転車より紙面」。ソウルの夜、焼酎を飲みつつ、そんなことを考えた。
Report from Asahi六回目
“Report” from Asahi No:5 「約束」
週刊朝日の「地村さんインタビュー」記事が、あちこちで批判を浴びている。弁解のしようがない、100%朝日新聞社に非があるできごとだった。朝日記者の一人として、私からも読者の皆さんにお詫びを申し上げたい。
取材先との約束を守れないなら記者失格である。記事への不信感を招き、朝日新聞全体の信用を落とす。信用されない新聞はただの紙くずに過ぎない。
取材先との約束。私にも苦い経験がある。ちょうど10年前。岐阜支局員で遊軍していたころの話だ。
バブルが弾けて、岐阜県にも不況の波が押し寄せていた。県の主力産業である紡績業にも影響が及び、中小企業の工場閉鎖が相次いでいた。「大手に波及するかもしれない」。そう思って網を張ることにした。会社に「潰れそうですか?」と聞いても、答えてくれるわけが無い。労働組合に的を絞った。ある日、親しくなった組合幹部が「A紡績の工場が危ない」とこっそり教えてくれた。周辺取材をしたら、閉鎖は数ヵ月後に迫っていることがわかった。思い切って、名古屋にあるA紡績の本社を訪ねた。会社幹部は渋々、事実を認めた。
夜、一本の電話がかかってきた。昼間の会社の幹部だった。「今、記事を書かれたら、即閉鎖だ。社員の新しい就職先が見つかるまで待って欲しい」と懇願された。書いても事実だから問題はないけれど、「人を苦しめるために記事を書いているわけではない」と、幹部相手に格好もつけたかった。「朝日が一番最初に書く」という条件で出稿を先延ばしにすることにした。
数ヵ月後。不安になりかけたころ、幹部から電話が来た。「待ってくれてありがとう。ようやく整理がついたので、朝日さんに書いてもらおうと思う」。会社にとって不名誉な話なのに、律儀に約束を守ってくれた気持ちが嬉しかった。
しかし。それだけで話は終わらなかった。
電話を受けてすぐに、工場の敷地がある市の役所を訪ねた。再開発の見通しや税収への影響などを調べようと思ったからだ。それがアダになった。
夜、支局で原稿を書いていると、会社幹部から電話が入った。「今、工場に地元紙の記者が来ている。閉鎖を知ってる。あんたが漏らしたのか」と怒鳴られた。「まさか。そんな」。びっくりして二の句が告げない。幹部は「すまないが、朝日だけにという約束は守れそうにない」と言って、電話を切った。
その夜は一睡もできず、自宅で新聞を待った。午前五時。朝日より早く届いた地元紙の一面にデカデカと閉鎖の記事が載っていた。私の記事も社会面トップだったが、悔しくて声も出なかった。
「もしや」。そう思い、役所が開くと同時に、前日取材した市助役の部屋に駆け込んだ。「あんたが漏らしたのか?」怒りを抑えながら聞いた。「そうだよ」。助役は、こちらが拍子抜けするほど平静だった。「だって、この市は地元紙に散々お世話になってる。お返しするのは当然じゃないか」
むちゃくちゃだ。「取材上の秘密」を平気で競争相手に漏らすなんて。約束違反なんてもんじゃなく、明白な営業妨害だ。半年後に岐阜支局を後にするまで、二度とその助役とは口を利かなかった。
約束。残念ながら、私にはろくな思い出が無い。出稿直前、特ダネの取材先から「やっぱり記事にしないで」と泣かれて生地を取りやめたこともある。デスクに「頭(トップ)を空けて待ってたのに。馬鹿野郎!」と怒鳴られた。取材先に「あと一日待って」と言われているうちに、他社に抜かれた。とりわけ、あの工場閉鎖の出来事は特大痛恨事として、今でも頭にこびりついている。
週刊朝日のくだんの記者はペケなのだが、朝日の絶対多数の記者は約束を守っている。守れない記者は現場から外される。政治部や社会部の取材先で「朝日はトバシ記事やガセが少ない」「朝日が書いたなら間違いない」という評価もたくさん頂いた。
工場閉鎖事件の夜、腹が立つやら、悔しいやらで荒れた原稿を書きなぐった。出稿後、ぐったりした私の肩を叩く人がいた。振り返ると支局長がコーヒーを持って立っていた。「ま、元気だせ。お前は朝日の信用も守ったんだから」。
今回の週刊朝日報道で、そんな支局長の言葉を久しぶりに思い出した。
ReportFromAsahi 第五回目
“Report”From Asahi
No:4「宇宙人」
三年前。ほぼ一年の間、毎朝・毎晩、私が通ったその家は、有名人や富豪の邸宅が多いことで知られる東京・田園調布の一角にあった。環状八号線から西へ折れ、車で三分ほど走ると簡易派出所(ポリスボックス)が左手に見えてくる。警察官が24時間警備する白亜の豪邸が、当時の民主党代表・鳩山由紀夫氏の自宅だった。
夏は防虫スプレー、冬はカイロ。これが私たち「鳩山番」記者の必携品だった。鳩山氏は番記者を決して自宅に上げないことで有名だった。朝は彼が自宅を出て車に乗り込むまで、夜は車を降りて自宅に入るまでの数分間が、日参する番記者たちに許された取材(=立ち話)の時間だった。出発と帰宅の時間は秘密になっていた。朝は早ければ午前七時前に出発することもあるし、夜は遅いと午前一時を過ぎた。高級住宅街は森閑としていて、車の排気音にはすぐ苦情が出る。車のなかで涼や暖を取ることは許されず、夏はやぶ蚊を追い払いながら、冬は足を踏み鳴らしながら、自宅前の路上でひたすら彼を待った。
「彼の気持ちをつかみたい」。取材源に肉薄するため、私も他の記者同様、一生懸命考えた。一番よいのは、鳩山氏に「他の記者より熱心」と思わせることだろう。鳩山番記者は新聞・テレビ合わせて15人ほどいたが、そのなかでも鳩山邸に日参する熱心な社は、私のほかに読売、日経、共同、NHKの4社だった。この4社は、平日の朝晩は必ず鳩山邸にやってくる。彼らを出し抜くために、いろいろやった。
日曜の夜、鳩山氏がプライベートな日程を終えて帰宅するのを待った。「熱心だね。何もないよ」。素っ気無かった。
携帯電話の番号を調べて、電話してみた。いつも留守電だった。
鳩山氏が韓国を訪問することになった。「シメた!」。韓国なら知り合いも多い。いろいろアドバイスして近づこう!人脈も紹介した。他の記者に勘付かれないように、こっそり党幹部を通じて韓国で大ヒットした映画ビデオも貸した。訪韓後、しばらくしてもビデオが戻ってこない。婦人に尋ねたら、「頂いたと思って、知人にあげました」。ビデオはお詫びのお菓子と一緒に戻っては来たが・・・。
ある朝、民法テレビ局で鳩山氏を待っていた。「他社と一緒に自宅でつかまえるより、テレビ局に入るときに話を聞いたほうが良い」。そう考えたからだ。ところが、出演時間になっても、彼はやってこない。「しまった。場所を間違えたか?」。焦りつつ、携帯ラジオでテレビの周波数を拾った。女子アナウンサーの明るい声が流れた。「今朝は、鳩山代表の自宅にお邪魔してます。どんな朝ごはんなんでしょうか」。あれほど、番記者を寄せ付けない自宅なのに。情けなくなった。
政治部の新米だったころ、先輩記者からアドバイスをもらったことがある。「政治家にはパッとしない人もいる。しかし、彼らは自分の選挙区で何万票も獲得してきた人だ。人の心をつかむだけでも大したものだ。侮ってはいけない」。
政治部に入って、「番」を務めた政治家は約10人。付き合った政治家は100人近い。確かにどの政治家も「意気に感ずる」というか、こちらが惹きこまれるものを持っていた。
「宇宙人」「目が動かない」「お坊ちゃま」。鳩山氏に対する批判の言葉が多い。果たして、彼は人の心をつかむのに長けた人だったのだろうか。12月、同僚が書いた代表辞任の記事を読みながら、自分の苦い取材の思い出と一緒にそんなことを考えた。
※朝日新聞社はこの秋から冬にかけて、民主党の代表選、分裂騒ぎを克明に取材・報道してきました。政治家・政党の主張を伝えるのも当然ですが、政治家の個人的な性格や人となりも交えて報道することは、記事に深みや説得力を持たせるうえで重要なことです。朝日新聞ではこうした人くさいエピソードを、三面の「時事刻々」や政治面の「記者席」などで随時伝えています(平成十五年二月号)
"Report" from Asahi第四回目
“report” from Asahi
N0:3 「動物園」
最近、北朝鮮を巡る報道への厳しい批判をよく耳にする。朝日新聞社に対しても、キムヘギョンさん(拉致された横田めぐみさんのお嬢さん)インタビューについて、「どうして、あんな少女に過酷な取材をしたのか」というお叱りをたくさん頂いた。
確かに質問によっては、きつすぎるものも含まれていた。配慮が足りない点もあったと思う。
と、同時に、一つの想い出が私の脳裏に甦った。
5年ほど前、私は「霞クラブ」と呼ばれる外務省記者クラブにいた。ある晩、朝日新聞社と業務提携している韓国・東亜日報社の東京支局員たちと食事をすることになった。支局長だった朴(パク)さんがソウルに帰ることになり、その歓送会だった。パクさんは当時六十ちょっと前。名前の通り、朴とつな感じのする白髪頭で、演歌のうまいおじさんだった。
いつもは支局の記者2人と話すことが多く、パクさんとじっくり話すのは初めてだった。東京・赤坂の海鮮居酒屋で日本酒を飲みながら、パクさんの思い出話を聞いていた。
だいぶ、パクさんの顔が赤くなったころ、ふいに「牧野さん、光州事件って知ってる」と聞かれた。80年代、全斗煥大統領率いる韓国軍事政権が、「自由化」「民主化」を叫ぶ全羅南道第一の都市・光州の市民を銃で圧殺した事件。多数の市民が自国の軍隊の銃剣で殺戮されるという忌まわしい出来事だった。「当時高校生だったが、韓国への印象が薄暗いものになった」。そんな風な答え方をした。
パクさんは、月並みな答えを気にするでもなく、淡々と語り始めた。当時、パクさんは脂の乗った社会部記者だったそうだ。「光州(クァンジュ)が変だ。すぐに飛べ」という上司の指示を受けて、ソウルから約四時間ほどかけて、光州にたどり着いた。「そこで見た光景は一緒忘れない」とパクさんは言う。
頭から血を流して路上に倒れる学生、泣き叫ぶ老女。道路に面したビルの窓ガラスは割れ、路上には火炎瓶や石が散乱していた。あちこちに装甲車が止まり、銃を持った軍隊が警戒にあたっていた。
夢中で写真を撮り、半狂乱の市民たちにくっついて右往左往し、やっとの思いで話を聞き、原稿を書いた。だが、最後に待っていたのは、軍事政権の検閲と記事差し止めだった。
「わたしはその夜、泣きながら全然事件と関係ない原稿を書いたんですよ。もう、どんな原稿だったかよく覚えていないが、動物園で鹿の子どもが生まれたという、他愛もない原稿でしたよ」。パクさんの口調はあくまで淡々としていて、まるで他人の経験を語っているかのようだった。
「牧野さん、韓国の人たちは当時の事件をロイターやAPといった外国通信で知ったんです。こんな事があって良いんでしょうかねえ」。韓国政府はそんなパクさんを危険視して疎んじるようになった。東亜日報にいられなくなり、一時期「留学」という名目で日本に滞在した後、ようやく復職したそうだ。
ソウルにいたころ、光州事件の犠牲者を祀った(事件発生日を表す)5・18記念墓地に行ってみた。白い大きな塔が立ち、犠牲者一人一人の墓碑が並んでいた。当時の事件フィルムやパネル写真も見ることができた。「これが、日本人観光客であふれ、自由を謳歌している韓国のたった20年前の姿か」と、暗然とした思いにかられた。
ソウルの友人に、光州での出来事をすると「当時、毎晩九時のニュースになるとテモリ(はげ頭)の偉そうな奴が出てきてねえ。誰だろうってみんなで話していたら、あとで全斗煥ってわかったのさ。それくらい状況が飲み込めていなかった」と話してくれた。
自由でものが言える国であればこそ、自制しなければいけないこともある。拉致被害者を大勢で取り囲み、家に深夜まで居座るなど論外だろう。一方で朝日新聞に入社以来、先輩記者からは「常に真実に近づけ」と口うるさく言われて来た。
横田めぐみさんの遺したお嬢さんがどんな方で、拉致被害者とその家族が北朝鮮でどんな暮らしをしていたのか。北朝鮮が拉致被害者の家族をどう扱っているのか。それらを知ることは、北朝鮮への政策や世論作りに必要なことだと思う。
パクさんは光州事件のとき、記者にとって一番つらいことを経験したけれど、その後、編集局長にまでなった。
回り道をしたパクさんに再び光が当ったのは、自由を渇望して止まない韓国人の健全な世論があったからだと思う。
"Report" from Asahi第三回目
“Report”from Asahi
No:2 「平壌」・・・・・後編
帰国の前夜、再び夕食会があった。丸い中華テーブルを囲んで食事を摂った。私の座ったテーブルには、平壌テレビなど北朝鮮側のマスコミ関係者が同席した。ホスト役の金容淳(キムヨンスン)・北朝鮮側代表らは、10メートルほど離れたテーブルの主賓席にいた。
食事が半ばに差し掛かったころ、ふと主賓席を見ると、最初はこわだっていた金氏の顔に赤みが差し、柔和な表情になっていた。「これは」と思い、思い切ってテーブルに近づいた。一礼して「少し話を聞かせてほしい」と切り出すと、運よく「座りなさい」と言われた。だが、問答は散々だった。「国交正常化交渉再開の意思はあるのか」「拉致問題をどう考えるか」と聞いても、「なるべく早く再会される事を望む」「拉致は存在しない」と紋きり調で答えが返ってくるだけだった。
それでも、直接話が聞けたからと、会場を抜け出して、急いで東京に原稿を送った、翌日の朝日新聞の一面の隅っこに、「本紙記者、金容淳書記に取材」という小さなベタ記事が載った。
5年前の当時と比べると、今は、当時会えもしなかった金正日(キムジョンイル)が会談に応じ、不満は残るが、肉声で「お詫びしたい」とも言った。当時は「自分が記者をしている間に本当に国交正常化できるのだろうか」とも思ったが、確実に時代は動いている。
5年前の取材の際、北朝鮮側がホテルに戦後、在日韓国・朝鮮人の夫とともに北朝鮮に渡った日本人の女性、いわゆる「日本人妻」を数人連れてきた。「ご苦労されてきましたね」と声を掛けても、硬い表情をわずかに動かす程度の反応だった。彼女たちが、自由に日本に帰ってこられる時代まで、あとわずかだということを信じたい。
最近、北朝鮮の関係者に会って話を聞いたら、「電車の中などでは金正日の悪口や政府への批判が出るようになった」との事でした。北朝鮮はお互いがお互いを監視する「密告制度」を採っていますから、知り合い同士でも気を許せません。もちろん、外でも秘密警察が目を光らせていますが、偶然に乗り合わせた人どうし、ついつい不満が漏れてしまうようです。それでもまったく自分の考えをいえなかった昔を考えれば、大きな変化だと思います。
◇ 北朝鮮も、住んでいるのは私たちと同じ人間です。「日本人を拉致した人間」もいますが、殆どは普通の人々です。私も一年間、韓国に留学したことがあります。北朝鮮で生まれ、朝鮮戦争で家族と生き別れた人々とも友達になりました。彼等は日本人と同じように、歌を歌い、酒を飲み、恋をする、普通の人達でした。
◇ 北朝鮮がテレビや新聞向けに流す・「ショーウィンドーのなかの北朝鮮の姿」だけに惑わされず、北朝鮮に住む普通の人たちのことも考えながら、色々な問題を議論してもらえたらうれしいなと思います。
朝日新聞社 牧野愛博
repot from asahi ②
Report from asahi
No:2「平壌」・・・・前編
私が北朝鮮のピョンヤンを訪れたのは、1997年11月。自民党の森善郎幹事長(当時)を団長とする与党3党(自民党、社民党、新党さきがけ)の訪朝団の同行取材だった。
これまで20カ国以上の国を取材で訪れたが、北朝鮮は際立って「異質な国」だった。順安(スナン)空港上空からみた北朝鮮の大地は、エネルギー不足による森林伐採で赤茶けた大地が広がり、所々に擬装した高射砲が見えた。空港で売っているものといえば、花束だけ。「何のために」と聞くと、チマチョゴリ姿の女性が「北朝鮮を訪れる人はみな、金日成主席の銅像にお参りするのが決まり。そのために必要だから」と無表情に答えた。
訪朝団の移動用車両は60年代に作られたベンツだった。誇り高い北朝鮮だが、国産車を作る力はない。北京で見た北朝鮮大使館の公用車もベンツだったが、日米韓の車を使わないのが、せめてものプライドなのだろうか。ほとんど対向車のない道を、古いベンツの車列は猛スピードで市街地へ向かった。たまに走っているのは、冬に備えたキムチの材料になる白菜を満載したおんぼろトラックぐらいだった。
平壌は静かな町だった。「外国向けショーウィンドー都市」との寸評通り、きれいで、生活感のない町だった。「道路側には洗濯物は一切干してはいけない」という政令があるのを後で知った。こっそり、アパートの裏側をのぞくと、粗末な木の物干しに、これも粗末なシャツが干してあるのが見えた。
宿泊先は、高麗(コリョ)ホテル。30階以という平壌で一番大きなツインタワー式ホテルだった。これより巨大なピラミッド型の柳京(ユギョ)ホテルは、建設途中に資金難から工事が中断。上階は無残なコンクリートの打ちっぱなしという状態で、その姿をさらしていた。
今回の日朝首脳会談時と同様、ホテルの一室にプレスルームが設置され、取材を行った。あらかじめ、外務省から「通話は全て盗聴されているので、そのつもりで会話しろ」と注意を受けていた。案の定、通話中に雑音が入り、電圧が不安定な状態だった。四六時中、案内役という名目で監視員がつき、外出もできない状態だった。
同僚と食事に行こうと、ホテル内の食堂に入ると、突然音楽が鳴り出した。電力難のため、必要なとき以外は節電しているようだった。「冷麺を」と頼むと、ボーイは「ラーメンしかない」。出てきたのは、日本のカップラーメンを皿に移したものだった。
歓迎晩餐会に出席した。メニューは「えんどう豆ライス」「アンパン」「雉の缶詰肉のソテー」。「朝鮮式フランス料理だ」と誰かが冗談めかした。ふと見ると、北朝鮮側の出席者は会話もそこそこに、一生懸命食事をしていた。
取材の最中、金日成の銅像を見に行った。私たちが到着したのを見計らったように、どこからともなく市民の一団が花束をもって現れ、参拝を始めた。これも図ったように、重々しい音楽が同時に流れた。
金日成の遺体が冷凍保存されている場所にも行った。生前、金日成の執務室だった日本の国会議事堂ほどもある建物を、丸ごと記念宮殿に変えて遺体安置所にしてしまった。カメラを背広のポケットに忍ばせて、室内に入ろうとすると、北朝鮮の人間が飛んできてカメラを奪い取った。
”Report”From Asahi①
毎月一回、テレフォン説法と合わせてお送りさせていただいております、朝日新聞社記者:牧野愛博氏の生の声、ReportFromAsahiを一号から掲載したいと思います。第一号は、まだ小泉政権が序盤戦だった頃の平成14年10月号掲載のものです。
No:1「首脳会談」
今年九月は「首脳会談」の季節になった。日米首脳会談、日朝首脳会談と、
今日本人がもっとも注目する二かここが相手であれば当然だろう。
首脳会談は、お隣の韓国では「チョンサン・フェダム(頂上会談)」
ち表現される。二カ国関係を決めるうえで最高の舞台というわけだ。
では、最近の日本の首相たちはこの首脳会談にどう臨んできたのだろうか。
村山富市元首相は社会党一筋だったから、政府関係者にパイプもなく、得意分野の社会、労働関係以外は知識に乏しい人だった。一方で、そのことを隠さずに振舞った。執務室でも事務方の説明に謙虚に耳を傾けた。
首相官邸の廊下でわれわれが質問をしても「そうじゃのう」と大分弁で丁寧に答えた。首相就任直後の日米首脳会談で、クリントン大統領が村山氏の人柄に触れ、「彼とならやっていける」と述べたのも有名な話が。
橋本龍太郎元首相は目立ちたがり屋だが、その自分の性格をうまく利用して外国の首相を「良い気分」にさせてしまうことが得意だった。
96年6月、韓国・済州島で金泳三大統領と夕食を共にした時。部屋の隅で「どんな話をするのか」と見ていたら、橋本氏は酒瓶を持つ腕の肘に、もう一方の手をさえる韓国式のスタイルで、金大統領に酒を注いだ。プライドの高い大統領は大喜びだった。同じようにエリツィン大統領にも気に入られた。
森善郎元首相は「永田町の宴会部長」を自認すると通り、首脳会談でも、いわゆる雑談には強いが、首脳会談には欠かせない「政治決断」が出来ない人だった。彼が首相時代、外務省幹部に「森さんが日朝首脳会談をやりたがっているのは本当か」と聞いたら「冗談じゃない、利用されるのがオチだ」と一笑に付されたことがある。
その意味では、最近の首相も大なり小なり、みなそうだった。村山氏は決断しようにも、それに足るバックボーンも知識もなかった。橋本氏は相手首脳には気に入られたが、お互いが国のトップから座を降りると、その合意は急速に有名無実化した。北方領土問題の「橋本・エリツィンプラン」などは好例だ。
首脳会談は「責任を取る場」でもある。法律や前例の範囲を超えなければ、相手国と合意できないときがある。役人にはできない。彼らは責任を取れないから、決断も出来ない。
決断には「判断する知識」「決断後の影響を見通す先見性」「周りを説得して納得させる人間性」、そして何より「責任を取るという無私の姿勢」が必要だ。
小泉首相の周辺から漏れてくる噂を聞く限り、こうした条件を備えているのか、少し心配になる。
今では政権も安部政権へバトンタッチされ、朝鮮半島情勢も随分と変化してきております。少し前の情勢をもう一度振り返り、今を考えてみるのも非常に面白いことかと思います。今後の掲載も楽しんでいただけたらと思います。